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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

日本宣教40-高山右近マニラ追放

2020.07.21 10:39

1612年の徳川禁教令は厳しくなく、その年にも4500人が受洗した。しかし翌13年に金地院崇伝の書いた「伴天連追放文」が発令。なんと大久保忠隣が京都に派遣され、教会を破壊し、信者を捕え引き回し、女性は遊郭に送ると脅した。そして加賀では遂に高山右近、内藤如安一族を追放を決めた。

右近は62歳、俸禄黄金60枚を返上し、「キリシタンの武器は人を打ち砕くのではなく、自分に打ち勝つための心だ」と抗わなかった。戦国武将右近の到達した境地である。しかし長崎では、島原藩主有馬直純のもとで棄教しない3名の家臣が家族共々火刑。レオン勘右衛門は「有馬の信仰を見よ」と笑って死に、娘は縄が切れると自ら薪を乗せた、皆列福されている。

この処刑には2万人が集まり、遺体は聖遺物として長崎に送られた。14年右近らを迎え、信徒らは自主的に贖罪の聖行列が行われ、3000人が参加した。これを知った家康は激怒して刀に手をかけたという。

11月7日、ついに右近、如安らが家族や宣教師と共に日本を旅立った。この船は小さなジャンク船で航海は難渋したが、12月21日にマニラに到着、港では祝砲が放たれ、港から政庁まで儀仗兵が迎えた。右近は驚き「こんな栄誉を受けることを私はいつ行ったのか」と言った。この日はマニラでは高山右近の日となっている。

下はマニラの高山右近像