生麦事件
Facebook・トーマ イタルさん投稿記事
ご存じのように、現在、「悪魔教」の信者たちと戦い、撲滅作戦をやっているのは、トランプ大統領をリーダーにしているチームみたいです。
これは、超古代から存在している、日本の神様グループ、「八百万の神々」でもあります。
「観音信仰」の人々で、「天照派」とも呼ばれています。
「観音(かんのん)」→「くわのん」→「きゅうあのん」→「Qアノン」
こうなるのです。
実は、今から、150年以上前の幕末でも、現在の「Qアノン」と呼ばれているグループ、つまり、「天照派」が、「悪魔教」を撲滅しようと動いた作戦があったようなのです。
それが、有名な「生麦事件」です。
ウィキペディアには、だいたいこういう内容が書かれています。
生麦事件は、江戸時代末期の1862年9月14日に、現在の神奈川県横浜市鶴見区生麦付近において、薩摩藩の行列の乱入したイギリス人たちを、供回りの藩士たちが、殺傷(1名死亡、2名重症)した事件。
尊王攘夷運動の高まりの中、大きな政治問題となり、そのもつれから、薩英戦争が起こった。
結論から先に言うと、この事件は、当時、外国から日本に侵略してきた、「悪魔教」の信者たちに気が付いた日本人たちが、彼らの悪行、つまり、日本の子供たちを誘拐して殺害していることに激怒して、悪魔たちを斬り殺していた事件だったようです。
この頃の日本では、ここだけじゃなく、日本各地で、似たような時間が、多発していたようです。
こちらの方は、あまり有名ではないそうですが、大阪府堺市では、これよりも、大きな事件もあったようです。
今年の春だったのですが、調査のために現地に向かいました。
超衝撃作である、「赤い靴」のブログ記事を書いてから、しばらくしてからの再調査になりました。
つまり、今回の記事は、「赤い靴」の続編のような内容になります。
いきなりの募集だったのですが、何人かの友人たちが、集まってくれました。
午前中に、「生麦参考館」という所で、待ち合わせをしました。
ここには、殺されたイギリス人の死体の写真も、展示してありました。
どこから、どうみても、「ゾンビ」でした。
この写真を見て、この事件の真相が、「悪魔教」と関係していることを、確信しました。
斬られたイギリス人の一人は、馬に乗って、600メートル離れた場所まで逃げたそうです。
その際、内臓が出たまま、馬に乗っていたそうです。
完全に、「ゾンビ」ですね~!
「生麦事件」、その真相は、幕末から明治にかけて、外国からやってきた、「悪魔教」の信者たちの悪行に気が付いた、日本の侍たちが、この逆賊たちを成敗するためにやった出来事だったようです。
現在で言えば、トランプ大統領がリーダーになり、悪魔たちをやっつけている、「Qアノン」のような活動ですね。
この侍たちは、日本を守った英雄たちだったのです。
詳細は割愛しますが、実際に斬ったのは、薩摩藩の武士たちだったようですが、陰の黒幕は、日本の幕府だったようです。
そして、殺されたイギリス人、「リチャードソン」という男性は、外国からも指名手配されていた極悪人だったようです。
久しぶりに、新型コロナウイルスの水面下の話題を書きました。
ぜひ、ブログ記事を最後まで読んでみてくださいね。
https://benesse.jp/contents/history/namamugijiken/【戦争の発端となった『生麦事件』とは? 外国の反応から学ぶ世界的な視野】
借金の返済期限は250年! 『生麦事件』とは?
多くの人が歴史の授業で習った『黒船来航』。アメリカ海軍将校のペリーが、1853年に蒸気船2隻を含む艦船4隻を率いて『浦賀沖』(現在の神奈川県横須賀市浦賀)に来航し、鎖国している日本に開国を求めたことで知られています。
ペリーに開国を迫られた日本は、200年以上続けてきた鎖国をやめ、やがて諸外国を受け入れ交易を行うようになります。こうして海外の文化や物が入り、外国人が日本に多く訪れるようになりました。特に『神奈川県横浜市』には外国人の居留地ができ、日本人とは肌や髪、目の色が違う人々がたくさん行き交うようになりました。
そんな時代に戦争を引き起こした一大事件が、『生麦事件』です。
当時有力な藩の一つであった薩摩藩(現在の鹿児島県全域と宮崎県の南西部)の最高指導者・島津久光(しまづひさみつ)は、朝廷と幕府が一緒になって政治を行う『公武合体』(こうぶがったい)を積極的に進めようとします。
そして1862年、島津久光は勅使(ちょくし・天皇の代理)を伴い、400人ほどの軍勢を引き連れて幕府に改革を求めます。幕府はその要求をのみました。そこで江戸を発って帰藩する途中、『生麦村』(現在の神奈川県横浜市鶴見区)という場所に差し掛かりました。
ここで軍勢は、馬に乗ってこちらに向かってくる4人のイギリス人と出会います。
大名行列が通る際には、先導している者が「下に」や「よけろ」と言って、行列が通ることを知らせるのですが、何しろ相手はイギリス人なので言葉が通じません。そのため、先導する家臣たちは身振り手振りで馬を降りて道を譲るよう命じました。
4人のイギリス人は「脇を通れ」と言われただけと思いこみ、行列の脇を通ろうとします。しかし、行列は道いっぱいに広がっていたため、行列の中を通るしかなく、行列の中を逆行し、島津久光の乗る籠の近くまでやってきました。
薩摩藩士たちはしきりに「馬を降りて道を譲れ」と命令します。周囲から上がる声に、イギリス人4人もさすがにまずい空気を感じ取ったのでしょう。今度は引き返そうとして、あちこちに動き回りました。
その行動に薩摩藩士が激怒し、数人がイギリス人4人に斬りかかり、1名を殺し、2名に重傷を負わせます。
当時は行列の前を横切るのはとても無礼な行為とされていました。大名行列を横切っていいのは飛脚(ひきゃく・貨物などを輸送する職業)と産婆(さんば・助産師)のみで、それ以外の人は道を譲るのが規則です。もし、これを破って横切った場合には『無礼討ち』といって、その場で斬られても文句は言えませんでした。
この事件によって薩摩藩とイギリスの仲が悪化し、イギリス艦隊が薩摩藩の船をだ捕したことがきっかけで、薩英戦争へと突入し、鹿児島湾で戦闘が繰り広げられました。
この戦いはイギリス艦隊に大きな損害を出し、薩摩藩も市街地の10分の1が燃える大惨事となりました。結局薩摩藩は幕府から2万5,000ポンドを借り、それを賠償金としてイギリスに支払うことでこの事件は決着しました。
海外の反応は冷ややか 『生麦事件』に学ぶ「郷に入っては郷に従え」
この事件は「大名行列では馬を降り、道を譲ること」という日本のきまりを、イギリス人たちが知らなかったことが原因です。もし、彼らがきちんとこの法を知っていて、引き返すか、馬を降りて道を譲っていれば、戦争に発展するようなことにはならなかったでしょう。
海外には日本では信じられないような法律がある国もあります。たとえば、シンガポールでは清掃に費用がかかるという理由でチューインガムが禁止されていますし、デンマークでは昼でも自動車のヘッドライトを点灯しなければなりません。
その国の法や文化を知らないと、知らず知らずのうちに罪を犯す可能性があります。
「郷に入っては郷に従え」
グローバル化が進むいま、自国だけに留まらず、広く世界で通じる人材が必要になっています。
そんな時代だからこそ、異国の文化や法律などを、より知っておく必要があるのではないでしょうか。
『生麦事件』の現場に行ってみましょう
『生麦事件』が起こった『生麦村』は、現在の神奈川県横浜市鶴見区にありました。現在でも『生麦』という地名がそのまま残っています。
『生麦事件』で死亡したイギリスの商人・リチャードソンが落馬して、とどめを刺されたとされている場所の付近に、彼の死を悼む歌が書かれた碑が建っています。