反骨の俳人
https://kanekotota.blogspot.com/2019/02/blog-post_25.html 【金子兜太戦後俳句日記】より
解説「兜太の戦争体験」 長谷川 櫂
金子兜太は61年間、ほぼ毎日、日記をつけていた。逝去後、18冊の3年日記と8冊の単年日記、計26冊の日記帳が遺された。
この『金子兜太戦後俳句日記』全三巻は日記原本を俳句関係の記述を中心に約三分の一にまとめたものである。
一人の俳人の壮年時代から老年期をへて殼晩年にまで及ぶ壮大な記録である。兜太の『日記』は日本の日記文学の血脈に連なるものだが、注目すべきは61年という長きにわたっていることである。
日記の書かれた時代は戦後の昭和と平成、二つの時代にまたがる。そして昭和を生きた兜太と平成を生きた兜太は明らかに印象が異なる。単に年齢を重ねただけのものではない。
まず「昭和の兜太」は社会性俳句と前衛俳句の旗手であった。この二つはしばしば重なるが、社会性俳句は俳句の対象の問題、前衛俳句は俳句の方法の問題である。どちらも戦後、解放されたマルキシズム(マルクス主義)に煽られて俳句の世界にたちまち燃え広がった。
日記のはじまる1957年(昭和32年)といえば第二次世界大戦の終結から十二年、世界中が自由主義陣営と社会・共産主義陣営の東西冷戦の渦中にあった。日本国内ではそれを反映して、自民党と社会党を左右両極とした対決が思想・政治・経済だけでなくあらゆる分野で展開していた。いわゆる60年安保闘争が沸き起こるのはその3年後である。この左右対決の構図はすべての日本人を巻き込んだ。兜太も例外ではなかった。むしろもっとも強烈なあおりを受けた一人とみるべきだろう。
これに対して「平成の兜太」は長寿時代の長生きのお手本、いわば老人たちのアイドルになった。冷戦の終結によって世界も日本も政治的なイデオロギー対立からグローバルな経済競争の時代に入る。
国内では96年(77歳)、社会党の改称に象徴されるように左派陣営が衰退しつづけ、自民党の独走に象徴されるように右派陣営が席捲することになる。戦後の自民党政治に批判的だった兜太は苦々しい思いで眺めていたにちがいないが、政治全体の右傾化け冷戦時代の不毛のイデオロギー対立に嫌気がさし、ささやかな経済的な満足を求めるようになった日本人の志向の変化を素直に反映していた。
この昭和、平成という激動の時代を兜太はどう生きたか。金子兜太とは何か。兜太の俳句とは何か。それを論じる優れた兜太論や兜太俳切論がすでに書かれていてもいいのだ
が、まだ書かれていない。
それには理由がある。一つは兜太自身にある。兜太の俳句は正岡子規か高浜虚子へと受け継がれてきた近代俳句の有季定型、写生という方法を乗り越えようとしていたため、従来の近代俳句の枠組みでは分析できないからである。
つまり近代俳句はこれまで兜太をとらえる有効な視点と方法をもたなかった。そのため兜太の俳句とその方法を古代からつづく詩歌史の中に正当に位置付けることができなかった。・・・・中略
こうして金子兜太論は今も棚上げになったままである。基本となる優れた兜太論がないということは、いかに兜太の模倣や亜流が流行ろうと、次の新しい俳句を生み出才力をまだ持ちえていないということである。
『日記』は「昭和の兜太」と「平成の兜太」が生きた波乱万丈の時代と人生のなまなましい記録である。まぎれもなく戦後俳句の超一級の資料である。何よりも未来の兜太論の基礎資料、土台となるにちがいない。
https://www.sankei.com/life/news/180221/lif1802210045-n1.html
【人間の生や自然を凝縮 反骨の俳人】 より
20日、98歳で亡くなった俳人の金子兜太さん。人生の達人というべき、自由かつ自然な生き方、飄々(ひょうひょう)とした笑顔の根底にあったのは悲惨な戦争体験と、内に秘めたる反骨心だった 日本銀行へ入行してから応召し、トラック島へ。補給線を絶たれた悲惨な状況下で多くの部下、戦友を亡くした。それが転機となる。 インタビューで金子さんは、「大学では講義にも出ず大酒をくらって自由人を気取っていた。それが戦争に行って部下や仲間が次々と餓死していくのを目の当たりにして自分の『甘さ』を思い知らされました。生きて帰れたら今度こそ生き方を改善しようと決めたのです」と語っている。「水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る」は、トラック島を去るとき、亡き戦友に手向けた一句だ。 復員後は、日銀に復帰、サラリーマンと俳句の“二足のわらじ”をはき続ける。日銀では、東大の同期生らが、局長や理事に出世してゆく中で、組合運動と句作に没頭。与えられた仕事は「金庫番」で、最後まで係長のままだった。 当時、通信社記者から日銀副総裁に抜擢(ばってき)された藤原作弥さんから副総裁室に招かれたことがあったが、金子さんは、「さすがに広くて、立派な部屋でしたが、私は『大したことねぇな』と。昔から、反骨心が強くて意固地になるタイプなんですよ」と自分のスタイルを変えようとしなかった。 俳句と人生の手本と仰いだのが、江戸時代の俳人、小林一茶がいう「荒凡夫(あらぼんぷ)」だ。自由で、煩悩のまま生きる平凡な人間という意味。「人間は、やはり、自由に楽しく生活すべきだ。本能の赴くままに生き、なおかつひとさまに迷惑をかけない」。作品も、一茶の句に宿るようなアニミズム(自然界すべてのものに精霊が宿っているという考え方)にひかれていった。 晩年は、埼玉県熊谷市を終の棲家(すみか)と定め、さらに自然の中へ体を溶け込ませてゆく。それは死生観にも表れていた。「肉体は滅びても命は滅びない。“あの世”に命はいるのだ」と。(編集委員 喜多由浩)