有力俳誌、幕引き探る 金子兜太氏、主宰誌廃刊を宣言
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「海程」は終刊、「萬緑」は「森の座」にリレーされた
俳壇の最長老、金子兜太氏が主宰誌「海程」の廃刊を宣言した。自ら育てた俳誌に自ら幕引く例は珍しい。3月には中村草田男ゆかりの俳誌も終刊。名門俳誌の“終活事情”を探った。
満99歳の白寿を迎える来年9月に終刊する――。金子氏の地元、埼玉県熊谷市で5月に開かれた「海程」全国大会。現代俳句協会名誉会長でもある金子氏が廃刊を発表すると参加者の間に動揺が広がり、思わず涙ぐむ人もいたという。
もともと俳句は創作者が寄り集まって生みだす「座」の文芸。有力結社によって活動する伝統がある。結社の象徴が俳誌で、主宰者は句を発表するとともに選句を手がける。
■血縁者が継承も
有力誌ともなれば、主宰者の死後も弟子や血縁者が継承する例が多い。高浜虚子の「ホトトギス」をはじめ水原秋桜子(しゅうおうし)の「馬酔木(あしび)」、加藤楸邨(しゅうそん)の「寒雷」、石田波郷(はきょう)の「鶴」などはいまも存続する。金子氏が高齢を理由に主宰引退を示唆していた「海程」も、弟子が継ぐとみられていた。
ところが本人の決断は違った。「水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る」。トラック島で終戦を迎え、戦友の霊を南方に置いてきた思いを作句の原点とする金子氏は、海の道程を誌名とした。花鳥諷詠(かちょうふうえい)にとどまらない、イメージ重視の「造型俳句」を実践する場との思いを込めた。「海程」の名は、金子兜太個人とともに収束させたいと弟子たちに理解を求めたのだ。
終刊宣言には、俳句文芸のあり方を問うメッセージも秘められていたようだ。趣味で俳句を楽しむ人は数百万人に上るとみられるが、指導者たちが結社の構成員となることで会費や寄付金が支える「地盤」が生まれる。終刊はその「地盤」を消滅させる。金子氏は「わがまま」とわびつつ結社の論理を封じ、文学的初志を貫いたといえる。
中村草田男といえば「降る雪や明治は遠くなりにけり」「萬緑の中や吾子(あこ)の歯生え初むる」などの名句で知られる。主宰誌「萬緑」は1983年に草田男が没した後に弟子の成田千空が率いる形で続いた。3月号で終刊を迎えたが、準備には10年を要したという。
■理解求め全国へ
弟子の横澤放川氏は全国に散在する会員をまわり、理解を求め続けた。余剰金は師の業績を残すため、1万1614句を収めた「季題別 中村草田男全句」(KADOKAWA)の刊行などにあてた。発行人で娘の中村弓子氏は著名な哲学者、フランス文学者。終刊号に「悲しさはない、良き終わり」と書いた。
横澤氏はこの終刊を「良き始まり」にもしたいと考えた。そこで新俳誌「森の座」を創刊、代表についた。俳誌はどこも高齢化が著しく、若い世代が加わらない。かつて「人間探求派」と呼ばれた草田男、楸邨、波郷や「造型俳句」の金子氏のような作家性が失われているとの指摘がある。「新しい作家が生まれる場にしたい」。横澤氏はメールなどを活用し、場づくりに取り組む覚悟だ。
本紙俳壇選者で、両誌の終刊に共感する黒田杏子氏は「俳誌は曲がり角にきている。潔い終刊は立派。これからの俳句のあり方を考える機会にしてほしい」と話している。
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■戦争踏まえた俳句論 一代限り 「海程」廃刊 金子兜太氏
海程の名は私の分身のようなものだから、惜しむ気持ちは強い。トラック島から帰還するときも、日銀に勤めながら俳句で立つ決意を固めたときも船の上だった。長崎支店から東京へ転勤するのにあえて瀬戸内海を通ったんですから。「海をゆく金子兜太、どこまで行けるか」という思いがあったんだ。「朝はじまる海へ突込む鴎(かもめ)の死」の句の鴎は戦友であり、私だ。
自分の戦後の出発点は「個」を打ち出すこと。花鳥諷詠を超えた個性をイメージで出そうとした。戦争体験を踏まえた自分の造型俳句論は後世の人に譲れる性格のものではないし、一代限り。
若い人たちは自分の考えで、いい句を作ってください。偉そうに聞こえるとイヤなんだが、これは自分への励ましでもあるんです。
(編集委員 内田洋一)
[日本経済新聞夕刊2017年7月10日付]