金子兜太の源郷に呼ばれて 大高宏允
https://kaigen.art/kaigen_terrace/tota-genkyo-ohtaka-hiromitsu/ 【金子兜太の源郷に呼ばれて 大高宏允】 より
金子先生が他界されて、なぜあのような型破りの人物が生まれたのかを思うことが多くなった。それを知ることは、先生をもう一度学びなおすことのようにも思える。
そんなことを、思い続けたのには理由がある。ひとつは、あの俳句へのほとばしるような情熱で、もうひとつは九十歳をこえても反戦・平和への執念のような取り組みを持続されていたこと、それが知りたかった。
俳句への情熱を、個人的にもっとも感じさせられたのは、ある年の新年の東京例会でのことであった。先生は、みんなから来る投句を、恋人の手紙を読むような気持ちで見ている、とおっしゃった。
その言葉に、驚きそして感動した。門外漢の私にとって、師と弟子の関係の見えない本当の姿をはじめて感じた一瞬であった。
しかも、先生は投句作品を何度も読み、時に辞書で調べて確認までしているという。申し訳ないような、有難いような気持ちでいっぱいになった。そんなことを昨日の出来事のように思い出す。
人間、齢九十ともなれば、日常の挙動さえ覚束なくなる。ましてや、世の中がどうなろうと、そのために時間とエネルギーを費やすなど、なかなか出来るものではなかろう。
しかし、先生は、東京例会、秩父道場などの内輪の機会でも、反戦・平和をしばしば語られた。それ以外でも、雑誌、出版物等での対談をはじめ、乞われれば講演会などでも数多く反戦・平和を説かれてきた。
金子先生をして、この俳句と反戦・平和へのいのち丸ごとこころ打ち込ませしめたものは、いったい何であろうか。
さまざま思い巡らしている過程で、それは秩父という土だ、という先生の声が聞こえたような気がした。これから、その声の向こう側に分け入ってみたい。
土と俳句の関係
東京例会での先生の言葉で、いまでも耳に鮮やかに聞こえてくる言葉がある。
「もっと、生々しい俳句を見せてほしい」
「生きもの感覚で書いてほしい」
と言った言葉である。
言うまでもなく先生ご自身が、それを体現していたからであり、句稿の作品の多くが観念に傾斜していたからでもあろう。
よく、「頭で作っている句」という言葉を聞いたが、私などはただ訳もわからずその愚を繰り返していた。「生々しく」とか、「生き物感覚で」と言われても、どうすればそう出来るのかさえ分からなかった。
それが少しずつ分りはじめたのは、先生の句や先生に採られた先輩たちの句を何度も詠み直すようになってからであった。
ところで、金子先生と土について考えるにあたり、先生の次の一句から入ってみたい。
無神の旅あかつき岬をマッチで燃し
私にとって、秩父に生まれ育ち、アニミズムを信奉するという先生と、「無神」は結びつかない。先生は何を考えてこの一句をなしたのだろうか。先生の中で、秩父という風土はどのように作用していたのか。あの自然豊かな風土に育ってなお、無神論者であったのか。その辺のことを、先生ご自身の言葉で確認していこう。
『金子兜太 自選自解99句』(角川学芸出版)に、この句について先生は次のように語っている。
津軽半島の北端の竜飛岬に行き、(中略)タバコの火を点したとき、(中略)「無神の旅」の語がとび出す。私は、そのときも今も神・仏の存在を信じるが、特定宗教は信仰しない。その意味では、無神論者である。岩肌の焔明かりに、ふとそのことを思って、なんとなく可笑しかったのである。いやしみじみと神仏の存在を感じたのである。
この先生の言葉で、既成宗教の神仏を信じることではなく、神仏そのものを直接に感じているということがわかる。
タバコの火が岩肌を赤く染めているのを見て、既成宗教の脚色された神仏ではなく、眼の前の自然と触れ合って感じる神仏と出会って出来た句なのである。
ところが、この一句を井口時男氏は、
一読、端的に、「岬をマッチで燃し」という大胆きわまるイメージの暴力性に驚くのだ。(中略)
ここに燃え上がる炎は、中央から遠く離れた辺陬の地に発する革命の先触れの烽火ともなるだろう。(以上、「兜太Vol.1 」三本のマッチ❘前衛・兜太 藤原書店)
との解釈をされている。
解釈は自由である。また、井口氏の論考は想像力が豊かでたいへん興味深い内容ではあるが、私は誤解をも恐れず、浮かんだ言葉を即興的に採用した大胆さにこそ風土性を感じた。
風土が体を作る
ここで、われわれ日本人にとっての神とか仏とは、そもそも何であるのか、識者の声を聞いてみよう。まず、鎌田東二氏の言葉、
五三八年に日本に伝来した仏教は、のちに「山川草木悉皆成仏」とか、「草木国土悉皆成仏」とかいう成仏観を掲げるようになったが、そこには「神ながらの道としての「神道」の神観や自然観や生命観が溶け込んでいると考えられる。山川草木や国土に至るまで皆ことごとく仏になるというのだから、それは「すべてが神であり、仏である」という理解であろう。(中略)
遠藤周作のキリスト理解においては、神道の神も仏教の仏もキリスト教の神もその区別はさほど大きくはない。それは万物を包み込む「大きな命」という表現でとらえられている宇宙生命、すなわち「かみのいのち」なのである。
さらに鎌田氏は、小泉八雲の著書「神々の国の首都」を引用して、われわれ日本人の神感覚に迫る。
古風な迷信、素朴な神話、不思議な呪術—これら地表に現れ出た果実の遥か下で、民族の魂の命根は、生々と脈打っている。この民族の本能や活力直観も、またここに由来している。したがつて、神道が何であるのか知りたい者は、よろしくこの地下に隠れた魂の奥底へと踏み分け入らなければならない。この国の人々の美の感覚も、芸術の才も、剛勇の炎も、忠義の赤誠も、信仰の至情も、すべてはこの魂の父祖より伝わり、無意識の本能にまで育まれたものなのだから」(講談社学術文庫)と続ける。
ハーンは神道には教祖も教団も教義も経典も仏教のような大哲学も大文学もないが、まさにそのないことによって西洋思想の侵略にも屈することのない独自の文化を保持しつづけたのだと主張している。キリスト教も仏教も偉大な神学・哲学を生み出した。しかし神道にはそのような偉大な神学も哲学も文学もない。けれども、そのないことがいろいろなものを包含し、包み込み、育み、変容させる母胎や触媒のような役目を果たしたのだと指摘するのである。(以上「日本人の宗教とは何か」第一章<神道とは何か>鎌田東二、山折哲雄編 太陽出版)
この本の編者山折哲雄氏は、第七章の最後に次のように語っている。
(前略)日本の豊かな森の中、自然の中に入っていくと、その森の中、自然の中から神の声がきこえてくる。仏の声がきこえてくる。そして人の声、ご先祖さまの声までがきこえてくるような気がする。自然そのものをこのように受けとめてきたのが、日本列島に住む人々の日常的な感覚だったのではないだろうか。神や仏の気配を感じて身を慎み、毎日の生活を送るようになったということだ。日本列島における「感じる宗教」が、このようにして誕生することになったといっていいだろう。
と述べ一神教のような「信じる宗教」に対して、風土によって育まれた「感じる宗教」であることを強調している。
金子先生自身も、対談などで自分と源郷の関係をしばしば語ってきた。『語る 俳句・短歌』では、佐佐木幸綱氏との対談で、
なんで私が俳句から離れられない状態になっていたか、私という一庶民が十分な俳句環境もないのに俳句という世界にのめり込んでいつたかということですが、その根っこに、いわば肉体的な条件があるわけです。私は肉体というのは風土が作ってくれるものだと思っていまして、今ではその風土のことを「産土」と呼んでいますが、その肉体的な条件があって、それが私を、私の俳句を支えたんだということです。
と自分の肉体が秩父という風土によってつくられ、それが俳句につながっていったことを率直に語っている。
開く心から生まれる俳句
また、平成十二年冬季号の「三田文学」では、田中和生氏との対談でこんなことも語っている。
どうも秩父というところは、人間そのものがみんな俳諧みたいなんです。(中略)貧しい地帯の人たちというのはその行動様式が諧謔、俳諧なんですね。まともなのはいないんですよ。だから私のなかにある俳句の始まりはもともと諧謔、俳諧です。俳句がしみついていたということは、イコールそれがしみついていたということですね。(中略)私なんか単純な人間だから、幼少年期を育った産土、その地域の影響というのがすごくしみている。文化現象とか風俗とか、そういうもの。それがありまして、どうも現在でも、それを原点にいつも物を考えているようなところがある。
先生のこうした言葉を聞いて、海程や海原に所属してきた人は、おそらくすぐいくつかの先生の俳句が浮かんでくるだろう。
私も次のような作品が浮かんできた。
きょお!と喚いてこの汽車はゆく新緑の夜中
銀行員ら朝より螢光す烏賊のごとく
粉屋が哭く山を駆け下りてきた俺に
二十のテレビにスタートダッシュの黒人ばかり
大頭の黒蟻西行の野糞
犬の睾丸ぶらぶらとつやつやと金木犀
これらの句の、汽車や、銀行員や粉屋ですら、またテレビに映る短距離競走の黒人たちや野糞、犬の睾丸などは風土に育まれた生き物感覚によってこそ共感されたものと思う。
田中和生氏との対談で、生き物感覚について先生は次のように話している。
そういう生き物感覚に恵まれている人の場合は、自ずと相手に向かって開く心が養われている。その相手に向かって開く心が「情(こころ)」である。それに対して自分に閉じていく心が「心(こころ)」である。こういう読み分けというか、使いわけをしようと考えるようになった。
おなじ「こころ」でも、相手に向かって開くか閉じるかで、違ってくることを一茶から学んだことを吐露している。先ほどの自由奔放な六句が、そのような微妙極まりない感覚から生まれているというのは驚きである。
思うに、金子兜太という人を慕ってその門にはいって来た人は、自由奔放にして且つ微妙極まりない詩ごころの魅力に惹かれてはいってきたのではなかろうか。自由奔放且つ微妙こそ、このいのちの場である森羅万象の不思議の世界である。
現代俳句協会に所属していない俳人の中にも、金子兜太の俳句や人間性に共感する人が多く見られることに、以前は不思議な思いをしていたが、海程の外側の人にも、「相手に向かって開く情(こころ)を持っている人がいると言われれば、素直に納得できる。
そういう人で今すぐ思いつくお名前を挙げてみよう。
長谷川櫂、有馬朗人、黒田杏子、深見けん二、大串章、西村和子、夏石番矢などなど。この人たちが金子兜太の句について書いているものを読むと、驚くほど先生の感性に共感している。
畑は違っても、心を開いていさえいれば、国籍、宗派、階級、派閥などなにも理解の妨げとはならないということであろう。
ここで、夏石番矢氏が先に引用した三田文学平成十二年冬季号で、「身体のゲリラ❘金子兜太の句業」と題して、論じている考察の最後の言葉を見てみよう。
このように金子兜太を見てきて、この俳人を、「身体のゲリラ」と呼んでみたくなった。
自分の多感な感受性を武器として、本来はそれほどの破壊力を持たない武器をここまで使い込み、また活用し、ときには奇怪さも帯びる、独自の幅広く変化に富んだ世界を、身体俳句や動物俳句を中心に築き上げてきたのは、実に稀有なことがらである。金子兜太の句業によって、それまで狭く貧血気味だった俳句というジャンルが、より開かれ、より活気に満ちた分野になったことは言うまでもないだろう。
身体のゲリラ、金子兜太が、これからもいのちあるかぎり、俳句という原野で闘いつづけることを祈るのみである。
この夏石番矢氏の言葉は今は他界にいる金子兜太先生に対する賛辞といってよかろう。多くの俳句を愛する人々の心に影響を与え続けてきた「身体のゲリラ」こそは、まさに秩父という風土から生まれたものであることをわれわれは見てきた。
夏石氏の文中に見られる、感受性、破壊力、奇怪さ、独自の変化などの言葉は、みごとに金子兜太の本質を捉えている。これらは、たまたまこの春、東京都美術館で開催されている「奇想の系譜展 江戸絵画ミラクルワールド」に出展されている伊藤若冲、曽我蕭白、狩野山雪、長沢芦雪、歌川国芳などの絵画表現とも共通するのではないか。彼らの絵画表現は、常識的美意識を抜け出し、自由奔放に生き物感覚を発散している。まさに、開かれた情(こころ)の産物と言えよう。
金子兜太先生にとっての風土としての源郷から生まれる生き物感覚は、あまねく日本の自然に生きるわれわれのこころにも宿り、共有されているものだ。それ故にこそ源郷からの流れは、この豊かで変化に富んだ自然があるかぎりつづいていく。
ユーラシアの果てから
NHKBSテレビの「江戸アバンギャルド」に出演した山下祐二氏(明治学院大教授)はこんなことを語っていた。
ユーラシアから争いを嫌う人々がこの国に流れ着き、変化に富んだ自然に刺激されて、独自の芸術を生むことになっていった。
この指摘に私は、なるほどと感心したが、考えてみると、この島にやってきた渡来人はユーラシアからだけではない。東南アジアなど、さまざまな方向からやって来たことであろう。そういう人たちが、この豊かで変化に富んだ風土と出会い、繊細極まりない文化と神々の多様性を創り出したのであろう。その中には、土着の縄文人やアイヌの人々も加えなければならない。ユーラシアの果ての美しく豊かな自然の島国は、そこで生きる人々を、争わず和を尊ぶ心を宿す心と体に育てたのであろう。
無論、長い時間で見れば、対立や争いはいくらでもある。しかし、世界的に見れば、この島国ほど平穏な時代の多いところはそう多くないはずだ。
しかし戦後も七十年以上過ぎて、その日本のよさが失われようとしている。金子先生も先に引用した田中氏との三田文学の対談で、その点を指摘している。
金子 (前略)いまのアメリカナイズされている風俗というか、文化と言っていいでしょうか。これに対する抵抗感覚がかなりある。(中略)
田中 アメリカナイズされた文化が入ってきたところに対するカウンターカルチャー的なものとして。
金子 その一つの代表として、俳句をいたわっていきたい。むしろ振りかざしていきたいと思う。
金子兜太という存在が、ある意味日本の辺境ともいえる秩父という風土で体をつくられその体から発散する型にはまらない自由奔放で生き物感覚に満ちた俳句を量産したことがどれほど多くの影響をいま放っているか、わたしたちはよく見届けておかなければならない。生涯秩父という源郷の火を心にともし続け、多くの弟子を育てた先生は、われわれにその源郷の種を残して逝った。
ところで、私は二月に入ってすぐ、金子先生の夢を見た。ソファーにゆったりと座り、リラックスして微笑をたたえながらお話をされていた。その内容は忘れてしまったが、穏やかな先生の声が聞こえてくる。
「大地に立っているということに気づくことだね。大地と空の間に生きていると気づけば自然と生かされているいのちを感じるんだ。そうすれば、そこが源郷だよ」
ユーラシアの果ての島国のさらに辺境の地ばかりが源郷ではない。砂漠であろうと、極寒の地であろうと、そこでいのちが大地を感じさえすれば、そこが源郷なのではないか。
金子先生の源郷に呼ばれて金子先生を師として仰いだと思ってきたが、どうやらそうではなかったようだ。むしろ、金子先生の源郷感に伝染し、自分のいのちの中の自分の源郷に気づかされたように思う。
夏石番矢氏が俳句を世界に広める活動をされているが、われわれ海原の衆も生き物感覚の俳句を通じて次の世代に対して、先生と同じように源郷感を広く伝染させていきたいものである。
それは多分、金子先生の第一句集「少年」の「あとがき」の、
「何よりも自分の俳句が、平和のために、よりよき明日のためにあることを願う」
という言葉に応えることにつながるように思う。