Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄 #2 Day 36 (01/08/20) 豊見城市 (23) Tagami Hamlet 田頭集落

2020.08.01 14:50

田頭集落 (たがみ、タガミ)


今まで、かつての豊見城村にあった字と呼ばれる集落を巡ってきたが、この田頭集落が最後の23番目になる。この集落には昨年10月にも来たが、残りの文化財をめぐる。


田頭集落 (たがみ、タガミ)

2019年末の人口は288人、世帯数は133世帯と豊見城市では2番目に小さな字。隣の名嘉地と同じく、この10年で人口は変わっていないのだが、世帯数はかなり増えている。一世帯あたりの家族数はかなり減少している状況だ。田頭は以前は田崎と呼ばれていた。1678年に田頭に改称された。また、文献では志茂田とも書かれている。田頭集落の始まりは、現在の集落がある志茂田原なのだが、名嘉地の田原に移動し、再度元のところに戻ってきた。

田頭の人口は沖縄戦当時昭和20年と比較して1.7倍にしか増えていない。通常で考えると、田頭は平坦な土地で港にも近いし那覇にも近いので、もっと人口が増えて良いはずだが、何故か人口は低いままで現在に至っている。

沖縄戦当時 (昭和20年) からの人口増加率では、田頭集落は1.7倍で豊見城市の中でも保栄茂集落 (1.5倍) についで二番目に低いところだ。


田頭公民館 (村屋 ムラヤー)

いつも通りに公民館に自転車を停めて、徒歩にて集落内を散策する。この公民館は元の村屋 (ムラヤー) があった場所。田頭集落は非常に小さな村だ。真玉橋から豊見城市中心を経て那覇空港への幹線道路から程遠くない場所にあるのだが、もともとの集落はそれほど広がっておらず、周りはほとんど畑で覆われている。集落内の路地も戦前と変わっていないように思える。これは他の集落と異なる。他の集落は、集合団地が周りに建設されて、人口もかなり増えているのだが、ここは発展から取り残された様に思える。豊見城市と那覇市の都市整備計画の中で、この地区は重点地域から外れていたのではないだろうか?

集落内には幾つかの古い沖縄独特の平屋形式の家屋がある。ただ、空家や空き地が目立っている。これは他の集落も同じだ。かつての集落の場所は戦前からの区画が残っているところも多いのだが、やはり空家、空き地が目に付く。字全体の人口はかなり増えているのだが、かつての集落内は過疎化が進んでいる様な気がする。これは確かめたわけではないが、集落内には、商店がない所が殆ど。昔ながらの門中一族が家を守っている。先祖伝来の土地は売らない。とはいえ、時代とともに絶えてしまった門中や、そこからの分家は集落の外の便利な場所に住み始めているのだと思う。那覇を外れると、ほとんどの集落がこの状況ではないだろうか。字に転入してくる人たちはもともとの集落の外にある便利なところを選び住み始める。集落は昔ながらの伝統や風習を守り続けており保守的な雰囲気がある。部外者にはその中に入っていくのは難しいのが一因かもしれない。


田頭の御嶽

集落の北側にある大屋毛 (ウフヤモー) と呼ばれる丘陵の麓に御嶽がある。多くの拝所がここに集中している。琉球国由来記ではこの田頭集落には幾つかの御嶽や拝所 (志茂田巫火、志茂田之嶽、アカサキ嶽、志茂田之殿、根屋之殿) の記載があるのだが、これらが現在残っている拝所のどれに当たるのかははっきりしていない。この場所がこの田頭集落の聖域になっている。今でもここで祭祀が行われている。


地頭火之神 (ジトゥーヒヌカン) 

旧暦五月のグングァッチ (五月) の稲の穂祭 (豊穣祈願) のウマチーと旧暦六月のルクグァッチ (六月) の稲の大祭 (収穫祭) のウマチーの際にまずはここを拝むそうだ。


神井 (カミガー)

豊見城村史によればこれが神井 (カミガー) と紹介されているが、現地では別の井戸がカミガーと表示があった。ここも初拝みやウマチーの際に拝まれる。


御穂田 (ミフーデン)

この拝所はミフー田という。「田」と呼ばれている拝所をこの間にも出会った。何故「田」なのかは気にはなっていたのだが、インターネットではそのいわれは見つからなかったが、他の拝所で「田」とついているものもあるそうだ。このミフー田は苗代 (ナーシル) とも呼ばれている。ここで豊穣祈願のウマチーが行われていることから、この付近一帯が水田でその収穫を祈願していたので、ミフー田と呼び、拝所になっているのだろう。


野呂井 (ヌールガー)

表示板は神井 (カミガー) となっている。豊見城村史では野呂井 (ヌールガー) となっている。御嶽の中にあるのだが、野呂殿内のすぐ後ろにあたる場所にある。先程の神井 (カミガー) と同じく、この野呂井 (ヌールガー) も神事に関わる井戸だろう。ノロが祭事の前に身を清めていたのだろう。


野呂墓 (ヌールハカ)

代々のノロが葬られているとも言われている。


一番アジシー

ここにはアジシーがいくつかある。アジシーが誰の墓なのかは不明。丘の上の方にあるので一番アジシーという。


二番アジシー (アジシーA)

豊見城村史に二番アジシーの写真が載っていたので探した。似たようなものが3つあった。草に覆われて全景が見えないのでよくわからない。多分一番上の写真のものではないかと思う。


上アジシー (アジシーB)

御嶽の上部にある墓。上部にあるので上アジシーと言われている。


ナナチアジシー

石が七つ並んでいる。七人のノロが葬られているとの伝承があるそうだ。先程の野呂墓 (ヌールハカ) も代々のノロの墓と言われていた。伝承なので確かなことはわからないのだろう。


火之神 (ヒヌカン) 

これが御嶽の最後の拝所の火之神 (ヒヌカン) 。御嶽には必ずあるヒヌカンだ。他の御嶽には祠のあるメインの拝所はここにはない。集落の人はこの場所全体を御嶽と考えている。

丘の森を少し中に入ったところに洞窟がある。ここも墓だったのか、この丘に多く造られた旧日本軍の壕だったのだろうか?


野呂殿内 (ヌルドゥンチ)、根屋

集落の嶽元 (タキムトゥ)であり、野呂元 (ヌルムトゥ) の屋号 野呂殿内 (ヌルドゥンチ) の敷地内には神屋がある。敷地内にあるので外観のみ。


久保田の神屋

国元 (クニムトゥ) と言われている久保田門中の神屋だが、久保田門中は絶えてしまっているので、屋敷があった敷地内に神屋だけ残っている。

屋敷の礎石だけが残っている。沖縄独特の石灰岩でできている。サンゴの化石が多く混じっているのでサンゴ石灰岩だ。

屋敷内に神屋がある。

この屋敷跡にかなり大きなガジュマルの木がある。相当の樹齢なのだろう。木の根本が拝所になっている。

屋敷跡のすぐ裏が大屋毛 (ウフヤモー) でその斜面には多くの古墓がある。

大屋毛 (ウフヤモー) の反対側の丘陵斜面は新しい墓地となっている。


寒井 (ソンガー)

集落の北側にある井戸で、水量の豊富な井戸であった。村井 (ムラガー) とも呼ばれている。産水もここから組んでいたので産井 (ウブガー) とも言われている。現在でも農業用水として使われている。


カドガー

上田のカドガーと言われている。上田門中の屋敷があった東側にある。カミガーとも言われて住民から崇拝されていた。


新屋

集落から少し離れた東に屋号上田一族の家がいくつかある。屋号新屋門中は現在は絶えてしまったが上田門中とのつながりが深いので、集落内からここに神屋を移してきている。琉球国由来記の根屋の殿はここではないかとの説もある。


神屋

集落内のあった別の神屋。どの門中の神屋かはわからなかった。


田頭シーサー A / B 

田頭の石獅子は二基あり、二つとも頭のみ。二〜三百前に造られたと云われている。この二体は夫婦獅子と云われており、集落西の端の石獅子がミームン (雄) でもう一つがウームン (雌) とも云われている。まずは集落の西端の石獅子で、西の彼方からやってくる災厄から集落を護るヤナカジゲーシ (悪霊返し) とされている。一時期に、田頭で疫病が流行ったときにこの石獅子を祀って疫病が治ったと伝えられている。西の彼方からやってくる災厄から集落を護る。

もう1体は松元西隣のシーサーと言われ、ここから北東向け200mほど離れた集落内の住宅脇に置かれ、シジ (霊力) 高い場所だといわれた与根の数珠森に向けられている。沖縄戦では、この裏の小山に避難した住民を米軍戦車の攻撃から救ったという逸話が残されている。(案内板にその時の事が書かれてある)


田頭大屋毛 (ウフヤモー) 軍構築壕

壕自体は確認できなかったが、沖縄戦当時に、ウフヤ (大屋) 門中 の墓が大屋毛 (ウフヤモー) に造られていた。


大屋森 (ウフヤムイ) のカー

ウフヤ (大屋) 門中 の墓の前にある畑の中にある井戸跡。

これで田頭集落は見終わった。この後、予根集落に移動する。予根集落は昨年10月から再訪となる。


 質問事項 


参考文献


豊見城村史 

第7節 字田頭 


位置

字田頭は那覇市高良 (旧小荷札) より糸満に至る三号線道路の西方、那覇市字具志 (旧小禄村) の南、
山を越したところにあり、本村字名嘉地の西方にある部落である。 


古島  

田頭は部落の変遷の項でも述べたとおり、現在の位置の西北方の高地にあったが (今の部落の北後の丘の嶺と西の丘の嶺との間の平らな所)、向穆王35年 (西歴1786年) 今から176年前に田頭村用水不便、土地疲弊につき、志茂田原に移転したとある。丘の上にあって水が不便であり、土地もやせていたから移ったのであった。 丘の上からは現位置の東側、山の麓に移ったが、そこからまた現位置に移ったとのことである。これは古老では覚えているとのことである。 現位置の東方が志茂田原 (下田原) というわけである。現位置は丘が西北にあって寒い北西の風を防ぎ、部落は南向きで暖く、水の便もよいところである。 

由来記中年中祭祀の条、志茂田村に志茂田の殿

「稲二祭の時、花米九合完、五水四合完、神酒壱完、田頭地頭。
神酒弐完、シロマシ壱器、同村百姓之を供え、志茂田巫 (ノ口) 祭祀する也」とある。 

この由来記は西歴1713年にできているから、この時代には志茂田村といい、地頭は田頭地頭といっており (嶽の下に地頭火神がある)、ノ口は志茂田ノ口といっていたのである。 西歴1719年の著である中山伝信録には田頭村としてのせ、志茂田村としてはのせてない。西歴1730年完成した琉球国旧記には志茂田村となっている。 西歴1786年には田頭村は志茂田原に移ったとなっているから田頭は由来記完成頃は田頭とも下田ともいっていたと考えられる。西歴1846年 (道光26年) には田頭村と (疲入のことがある) ある。これは地頭代までなった嘉数東リ前田の祖の口上覚書にある。 

由来記中の御獄 (志茂田の嶽) はその後、部落移動のため不明であるが、現在でも志茂田の嶽として部落の後方丘のふもとに尊崇されていて、嶽には多くの拝所がある。アカサチ獄は海岸にあるが、その由来は知られていない。志茂田の殿、イレイ川は不明である。 

由来記中にあるサウズ川については琉琉国旧記には早端川としてあり、部落変遷の項で記した寒川 (そっ) はサウズ川からソッ川、ソン川になったとも言われているので、このサウズ川の附近に寒川村はあってサウズ川 (井泉) を使用したのではないか、研究を要する。屋号新屋の後にあるのがサウズ川で一名按司井ともいうようである。 

現在拝所としての井泉に産井、神井 (かみがー) があり、共に屋号上田のそばにある。按司井と御穂田が屋号新屋の後にある。祝女井が野ン殿内の後にある。 

国元は久保田というが、中世の元だといい、古い元家は新屋だとされ、由来記中の根屋の殿は新屋の神屋をいうと考えられるが、現在新屋は廃家となり、部落で新屋をつくって崇めている。 

国元の前にはシーシの前がある (瀬長から来る所、東原一番地在)。

慰霊塔が前森小 (めーるー小)にある、英霊之塔と称する。 


祝女

志茂田祝女は田頭の屋号野ン殿内である。管轄は田頭だけであった。野ン殿内は部落の元として獄を管理している。 


世立ちと地組 

田頭世立ち初めは琉球千草之巻によれば「田頭村、兼城按司の御子、田頭大主在所根所」となっている。これを祖先宝鑑からみれば、(天孫子系統図参照) 

この上江田主と田頭大主は同一人だと思われる。 

田頭大主の後代には (年代不明) 現首里崎山町高原家 (栄氏、頭字吉) の祖先高原吉貴が入聟に入ったという。屋号上田、松元、朝儀小、瀬長はその子孫だといわれている。 地組初めは千草之巻によれば「田頭村、南山より来る宜保親雲上在所」となっている。この人については祖先宝鑑にも見当らないし、不明である。しかし、字渡橋名の屋号勢理の祖先は南山の子孫で元田頭部落に住んでいて、田頭の新屋小とも親類関係があり、現在姓も宜保姓を名乗っているし、田頭の西に按司世墓もあったし、口牌も残っているから、この人は勢理の祖先に違いないといっている。田頭野ン殿内の祖先は大城世主 (玉城按司の子) の子孫で大城大屋子の弟、下田比屋という人の子孫だと某家系図にある。