心のアンカー
最近色々なところで、「書いた方がいい」という話を耳にする。
確かに自分自身書くことで頭のものを外に出し、更に新しいものを取り込めるし、書いたことに共鳴してくれる人が居るのはなんてったって嬉しいことだ。
元々ブログは中学時代に大人びた同級生に憧れて始めたものだし、書き方もその時の見よう見まねでなんとなく数行空けて書くというのを今でも続けている。文章が良いと言っていただくことも嬉しいことに幾度かあるが、吉満さんの文章てらこやを受けたほかにはほぼ我流である。
そのブログが、中学時代の終焉と共に一旦離れた後、こうしてまた自分の人生に深い意味を持って発信する手段として現れるというのは時代の妙を感じる。
今までも考えたことを書いてはいたが、本日また清水店長から闘魂注入して貰ったので、一記事ずつ、精魂込めて書くという氣合いが入った。
ここ数ヶ月は本当に色々な刺激を受けたことで、かつてないレベルで、自分の感性の改革が進んでいる。
自分にとって別々にあった場所の方向性がひとつの極として収束されたのを感じる。導かれるとはこういうことか、と日々感じる。
なんとなく言う気になれなかった自分の将来思い描く姿もこの際だから書いてみようと思う。
自分は中島敦の『名人伝』の影響を大いに受けており、将来自分が持つであろう歯科医院にもだいぶ投影してしまう。社会的成功がどうのとか、そういったステレオタイプな将来像はここ数ヶ月で完全に吹っ飛んでしまった。
コロナウイルスが時代を切り替えたのを感じる。将来に対する不安で物を売ったり、恐怖に打ち勝つ手段としての富はもう必要ない。
患者がたくさん来る歯科医院は、歯科医院としては成功だが歯科医師としては敗北だと自分は思う。医療系として唯一、予防しうる疾患を対象にする歯科が、仕事をすればするほど自分の仕事を増やしてしまうという状況は皮肉でしかない。歯科医師という仕事が無くなるくらい先手で行動して、もし本当に仕事が無くなったら半自給自足で食べていく、これが自分の理想である。
そうした青臭い理想を仕事だけ出来る大人に否定させないために自分は今まで高次の本を必要として、圧倒的な観念を取り込んで武装してきた。
でも、それも半分不要になった。時代のレールは既に切り替わっている。1つの現象に対して、自分が思った世界観で生きていける時代、それがポストコロナ時代の真価だと思う。
今まで通り恐怖の奴隷、未来の首輪を付けて生きるか
「いま」を生きるか、自分達はもう、選んで良いのだ。
ここにアンカーを下ろす。忘れたら帰ってこられるように。