「生きててよかった」と思える人生を歩むんだ
三浦春馬くんのニュースから数日後、またショッキングなニュースを見ることになった。
ALSの女性が安楽死を求め、SNSで知り合った医師が薬物を投与して殺すというニュース。
私、「安楽死」とか「尊厳死」という言葉を見ると、なんだか心がざわざわしてしまう。
一見、「本人主体」な感じにみえるんだけど本当にそう??
私は重度の障害を持って生まれて、確かにこれまでの人生の中で、生きる意味みたいなものが見つけられない時期もあったし、未来に希望が持てなかった時期もあったけど、
でもね、死にたいと思うほど世の中に絶望したことはなかったなと思う。
あと、仮に「死にたい」と思っても、「自力では死なないしなー」と思ったり。
昔、同病仲間と「うちらがもし自殺したくなったとしたら、どんな方法でする?」みたいな話しをしたことがあって、「電動で車に突っ込む」とか、「海に突っ込んでいく」とかあったけど、どれを選んでもその時必ず1人ではないから、その瞬間に立ち会うであろう人を一生悲しませると思うと、その選択は絶対にないなと思った。
今回、このニュースの事で思い出したことがあったんだ。
私がまだ入院していた頃の出来事。
同じ病棟の2つ下くらいの男の子が自殺したんだ。
消灯時間になって、彼がいなくなっていることに職員が気づき、探し始めたんだけど見つからなくて…。
翌朝、隣の特別支援学校の校庭の木の下で、電動車椅子に座ったまま、首を後ろに倒して亡くなっているところを発見されたの。
彼に何があったのか、後々分かったことはあったけれども、当時、彼と毎日一緒に過ごしていながら、彼がそこまで追い詰められていたことには全く気づかなかった。
そして、重度障害者がたった1人で死んでしまえるという事実に大きな衝撃を受けた出来事だった。
今回の事件で、安楽死や尊厳死への賛否がまた色々と言われているけれど、容易に「本人の意思」という部分だけ切り取って議論してもらいたくないなぁと私は思う。
「死にたい」と思ってしまう理由が必ずあるはず。
それはなんなのか?
どこからくるものなのか?
そこを見ずして、あたかも本人の意思を尊重するかのような「尊厳死」はありえないなと。
私は、これまで出会った人たちから「生きるって素晴らしい!」ってことを教えてもらってきたし、それをたくさん体感してきた。
だから、どんな身体になっても、誰かにたくさん迷惑をかけてでも、「生ききる人生」を全うしたいと思っている。
船後議員の言う通り
「死ぬ権利」より「生きる権利」が当たり前になるように。