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煩悩即菩提

2020.07.25 03:11

https://true-buddhism.com/teachings/bonnosokubodai/  【煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)とは?】  より

「煩悩即菩提」とは、仏教に教えられる究極の幸せです。一体どんな境地なのでしょうか?

そして、どうすれば煩悩即菩提の身になれるのでしょうか?

煩悩とは

「煩悩即菩提」の「煩悩(ぼんのう)」とは、私たちを「煩」わせ「悩」ませるものということです。

全部で108ありますが、中でも最も私たちを苦しめるのは、「三毒の煩悩」といわれる、

欲や怒りや愚痴の心です。

私たちは、お金や財産、地位、名誉を求めて争い、恋人を求めて欲の心に馳せ使われて苦しんでいます。

自分の思い通りにならないことがあればイライラし、腹を立てれば人間関係を焼き尽くし、

怒りの心で苦しんでいます。

誰か気に入らない人がいれば、嫉妬やねたみ、恨み呪いの愚痴の心で、陰口や意地悪をし、日々、嫌いな人を呪い続けて自ら苦しんでいます。

このように、自らを苦しめている心が煩悩です。

私たちを苦しめるものが、お金や財産、地位、名誉や周りの人々ではなく、自分の心だと知らされれば、煩悩をなくせば幸せになれると思います。

煩悩をなくせば幸せになれる?

そこで煩悩をなくすために、仏教では、出家して、戒律を守り、煩悩をなくす修行を行います。

ところが、煩悩をなくそうとすればするほど、煩悩が噴き上がってくる自分の心が知らされます。

例えば欲の心なら、欲望のままに好き放題やっている私たちは、欲望を抑えるくらい簡単なように思います。

ところが、実際に欲望を抑えようとしてみると、欲の心の強さが知らされて来ます。

ちょうど、美味しい物を好きなだけ食べているときは食欲を感じませんが、ダイエットや食事制限をしてみると、お腹がすいて、食べたいという衝動が常にわき上がり、食欲の強さが実感されてくるようなものです。

仏教では、すべての人は「煩悩具足(ぼんのうぐそく)」であると教えられています。

「具足」とは、それでできている、それ以外に何もないということです。

雪だるまから雪をとったら何も残らないように、人間から煩悩をとったら何も残らない、

煩悩の塊が私たちだということです。

もし私たちに清らかな心があって、それが煩悩によってさびついているだけならば、厳しい修行によって磨いていけば、やがてきよらかな心が磨き出されることもあるかもしれませんが、煩悩具足ということは、100%煩悩です。

真っ黒な炭の塊は、どれだけ磨いてもきれいになることはなく、何もなくなってしまうように煩悩具足の私たちがいくら煩悩をなくそうとしてもそれでさとりを得ることはできないのです。

煩悩即菩提の即とは煩悩をなくすことができないとすれば、幸せになるには、煩悩をそのまま幸せに転じるしかありません。

煩悩即菩提の「即」とはそのまま転ずるということです。

西洋と東洋の考え方の違いでいえば、西洋では、悪いものをなくそうとするのに対して、

東洋では、悪いものをいいものに転じようとするようなものです。

西洋の医学では、ガンのような悪いところがあれば、手術で切り取ってなくそうとします。

それに対して、東洋の医学では、切り取らずに、漢方薬を飲ませたり針を打ったりして、

そのまま善く転じようとします。

西洋のチェスでは、相手の駒をとったらそれで終わりですが、東洋の将棋では、相手の駒をとったら味方として復活します。

ちょうどそのように、煩悩を、そのまま菩提に転じてしまうのが、煩悩即菩提です。

「菩提(ぼだい)」とは喜びのことです。これが仏教に教えられる究極の幸せなのです。

ではそれはどんな世界なのでしょうか?

言葉で表せない絶対の世界

ところが、煩悩即菩提の世界は、究極の幸せですので、言葉で表すことは困難です。

たとえば、多くの人が知っている、コーヒーの香を言葉で表すことができるでしょうか?

言葉には限界がありますので、コーヒーの香を知らない人に、言葉で伝えることはできないと思います。

このようなありふれた体験でも難しいのに、ましてや仏教を聞かなければ誰も知らない

究極の幸せです。

言葉であらわすことはできないのですが、それでも、何とか伝えようと、色々なたとえで教えられています。

煩悩即菩提を表されたたとえ

氷と水の関係

煩悩がそのまま喜びに転ずることをよく氷と水にたとえられてます。

氷が煩悩で、水が菩提を表していますが、氷が多ければ多いほど、水も多くなります。

ちょうどそのように、煩悩が多ければ多いほど、喜びも大きくなります。

借金がそのまま貯金になってしまうようなものです。

渋柿の渋がそのまま甘みかな

これを教えられた歌に、昔から「渋柿の渋がそのまま甘みかな」という言葉があります。

表面に白い粉をふいて甘い干し柿がありますが、あれは元から甘かったのではなく、渋柿を干してできたものです。

渋柿は、少しかじっただけで、口が曲がるほどの渋みがありますが、渋柿の渋を抜いて、甘みを入れて干し柿にしたのではありません。渋柿の渋が甘みになったのです。

ですから渋柿が渋ければ渋いほど、甘い干し柿ができます。

ちなみにこれは、たとえで表しにくいところですが、煩悩がやがて悟りの縁となることではありません。

「即」というのは、そのままということで、同時にあるのです。

これが同時であることを表したたとえには、「太郎と美少女のたとえ」というのがあります。

太郎と美少女のたとえ

昔、太郎さんは、山を一つ越えて何キロも離れた隣村の学校に通っていました。

雨がふると大変です。遠いしぬれるし坂道だし、学校へ行く気が失せてしまいます。

ところが、ある日、同じ村に美少女が引っ越してきて、女の子一人で山道を行くのは危ないので、二人で一緒に登下校することになったのです。それから学校に行くのが楽しみになりました。特に、雨がふると最高です。カサを持ってこなければ、彼女のカサに入れてもらえます。山も道も少しも変わらないのに、今まで苦しみだった山道は、遠ければ遠いほど嬉しく、雨は降れば降るほど嬉しくなったのです。

このように、煩悩は少しも変わらないのに、そのまま喜びに転じてしまうのが、煩悩即菩提です。

これは頭で理解しようとしても無理ですが、煩悩即菩提の身になって、煩悩即菩提の体験をすることは誰でもできます。

どうすれば煩悩即菩提になれるのか

ではどうすれば煩悩即菩提の身になれるのかというと、煩悩と菩提は一つだと気づくとか、思い込むということではありません。

煩悩即菩提にならないのに、頭だけで気づいたり思い込めるものではありません。

煩悩即菩提といわれるように、煩悩あるがままで、究極の幸せになれるわけですから、

仏教では、苦悩の根元は煩悩ではないと教えられています。

その煩悩と別にある苦悩の根元を断ち切れば、煩悩即菩提の幸せの身になれるのです。

では、その苦悩の根元とは何か、どうすれぱ苦悩の根元を断ち切れるのか、ということは、仏教の真髄ですので、メール講座と小冊子にまとめました。一度見ておいてください。