大君の通貨
江戸川幕府の崩壊を薩摩藩・長州藩の武力連合によるものという視点で描くのではなく、通貨為替戦争による敗北という視点で描いたのが本書「大君の通貨」(著者/佐藤雅美さん)です。あとがきにおいて佐藤さんも機会を見つけてストーリーの整理をした、、というような記述があるように、(自分が門外漢のせいもあるのですが)一般の読者のレベルでは、貨幣の流通、為替に関してちょっとわかりにくいところもありますが、ペリーの和親条約締結以後の日本幕府とイギリスやアメリカの外交官との間に、日本の通貨問題があった、というのは初めて知りました。
日本の貨幣問題については、いくつか紹介されていますが、まず、当時の金銀交換比率が国際的には1:15であったのに対し、日本国内の比率は1:5だったことがあります。つまり外国(上海、香港)から銀15枚を日本へ運び、金と交換すれば金貨3枚と交換できるわけです。その金3枚を外国へ運び銀と交換すれば45枚になります。この45枚を再び日本で金と交換すると金9枚、これを続けると巨額の富を築くことができるというわけです。このようにして当時の外国の貿易商が日本の保有金を海外へ流出させ、それにより幕府の財政が次第に悪化したのです。さらに、金の海外流出が起きるのは金価格が安いことである、という外交官の意見を安易に受けてしまい金の価格を 3.375 倍に引き上げたのですが、日本は当時金本位制だったため、物価がその分高騰し、下級武士、浪人、小作者などは政府に強い不満を抱くようになります。おそらくは、このような物価高も尊王攘夷思想と重なって、日本の世論は倒幕に傾いていったのでしょう。
この通貨問題に対して、当時の徳川幕府において外国側の担当者と互角に話し合いを行なえる能力を持った人間は、当時外国奉行を務めていた水野 忠徳(みずの ただのり)だけでした。実際はどうか分かりませんが、本書においては、この水野さんという人は通貨問題には詳しいのですが、生まれが下級武士の出身だったためか、独立自尊の精神が邪魔をして回りの人間と強調して物事を進めることがなく、外交官との通貨問題協議においては独断で物事を進めるような人物として描かれています。このため、彼の上司、外国事務宰相(今の外務大臣にあたる)/間部 詮勝(まなべ かつあき)は、この通貨問題から水野を解任します。代わりに自分が出席したイギリスの初代駐日外交代表オールコックやアメリカ駐日公使ハリスとの協議では、ハリスに突っ込まれ苦し紛れに「拙者は大名で、金銭のことなど取り扱わないのでござる。」と伝えたそうで、この後しばらく「拙者は大名でござる。左様なことは存じませぬ。」という台詞が外国方の間での流行語となりました。(P121) このように、当時の大名で通貨問題に関する知識を持ち合わせている人物は日本では皆無だったようです。考えてみれば封建制度が200年以上も続き、コメが流通価値の基本にあったわけですし、また、武士の価値は、外敵と戦い藩主を守ることにあるわけですから、それもある面で当然で仕方のないことなのですが。。。 (この小説を読む限りにおいては、)幕府に通貨政策を担当できる人材が少なかった、というのが通貨戦争に負けた原因だと思いました。
本書において一番興味深い人物は、ハリスです。ハリスという人はペリーの日本遠征以降、日本と通商条約を締結した業績により歴史に名を遺した人物として日本では有名ですが、実際は、駐日公使の仕事の他、副業としていろいろ商売をしていた人物のようです。(当時のアメリカ外交官は、自分の商売を持っていても法には触れなかったようです。)日本へ来る前には、自分の興した商売で失敗し、借金もけっこうあり、日本に来てからも、いろいろ金儲けを考えていたようです。実は先に紹介した金の流出問題に関しても、ハリスはこの事実を知っていたのですが、自らの財産づくりの為、幕府へ連絡する義務を怠っていたようです。ハリスはプロテスタントなので、自分のプロテスタントとしての信仰と利殖の間で葛藤することもあったようです。この小説では、ハリス、水野忠徳など登場人物一人一人がどちらかというと、自己の欲望に忠実な人間像として描かれていて、そこが逆にさっぱりしていて、小気味いい印象を受けました。