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首相が衆院解散できるのは国民がオーナーだから

2020.07.28 06:05

【政治考察】 令和二年七月二十五日に47NEWS/全国新聞ネットは、共同通信・佐々木央 編集委員の記事「解散風の正体は?使用人が雇い主のクビ切る不合理」を配信。副題は憲法の定めなき「首相の大権」と首相の解散権につき、疑義を唱えた。47NEWSは、全国の五十二の新聞社と共同通信のニュースを扱う地方紙連合のニュースサイト。


佐々木委員は「議員は究極の公僕」と前置きし、国会議員を解雇する手法として“除名”を挙げた(憲法 第五十八条 第二項)。内閣総理大臣は国会(衆院)より指名される。総理大臣は「国会に雇われている立場」と委員は説明。だが現実には総理大臣が国会を解散し、雇われた側が雇い主を解雇している、と続ける。


日本を株式会社としよう。オーナーである株主は日本国民だ。その国民達が出資(納税)し、会社(国会)をつくり、取締役(国会議員)を雇った。その国会議員達は、大企業でいう所の執行役員(政府、総理大臣)を雇った。そして執行役員が取締役、つまり現経営陣を解雇した。


正に疑問である。


衆院の解散には二つ憲法に規定がある。“天皇の国事行為”の第七条と“内閣不信任”の第六十九条。委員は後者を原則とし、前者を例外とした。至極、真っ当だ。委員は昭和三十五年の最高裁・大法廷の判決を引用。いわゆる「苫米地事件」。法学部が憲法学を学ぶ際の基礎中の基礎の判例である。


昭和に総理大臣の衆院解散は無効だと訴えた国会議員がいた。判決は「衆議院解散の効力につき、司法審査は及ばない」。司法府・最高裁は行政府・内閣と立法府・国会のやり取りを判断できないと。


何故か。


オーナーは国民だからだ。最高裁は国民に間接的に雇われており、オーナーの判断に口を挟めない、という事だ。その証拠に判決文には、以下の様に国民の言葉が十以上並ぶ(抜粋)。



これでもか、という程に国民を推す。民主主義を徹底している証だ。総理大臣が勝手に衆院解散したとしても、気に入らなければ、オーナーである国民が選挙で落として総理大臣そのものを変えれる(別の総理大臣にしたい場合には、解散前の野党第一党を通常、選ぶ)。大方は与党の党首か、野党第一党の党首のどちらかが総理大臣となる。選挙後に党首を勝手に変える行為は、国民を欺いている。


明治憲法では天皇が主権であった為、首班指名(総理大臣を選ぶ事)等は天皇の権限だった。



委員の指摘は法律的に正しい。但し、法的には誤りだ。法律と法は異なる。感覚的に法律は、行政府と立法府がつくるもの。法は司法府と国民がつくるもの(判例と憲法)。大陸法と英米法が織り交ざる稀有な法治国家の日本。最高裁判例は法律でなく、判例法という法なのだ。「それは最高裁で決める事ではありません。オーナーである国民の皆様が決めて下さい。」というのが、司法府の判断であり、日本の法となっている。その為に簡単に最高裁判例は何十年も覆らない。


全ては国民が政府・国会・裁判所の三権を上とみなすからおかしな事になる。彼らは三権であり、国民はその上の主権である。自民・二階俊博(己卯)幹事長が以前に報道機関を「第一権」と言っていたが、主権の誤りである。政府も国会も裁判所も国民の下である。


報道機関と記者達の概念が間違っているのだ。記者会見でもへり下った様な質問文が記者達から飛び交う。因みに小池百合子(壬辰)都知事は、最初期の記者会見で記者達のへり下った言葉遣いを遠回しに注意を喚起した。だが、都庁記者クラブは今でもへり下る。

だから国民が勘違いをする。


相手(公務員)が敬語を使わないなら、注意するか、こちら(主権者)も敬語を使わない。相手が敬語を使うならば、こちらも敬った言葉を使う。


記事:金剛正臣

画像:日本国憲法(にほんこくけんぽう)/国立公文書デジタルアーカイブ