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眠りの意味、夢の意味

2020.07.27 10:27

http://www.bekkoame.ne.jp/~topos/steiner/usw/steineretc2.html  【眠りの意味、夢の意味】  より

睡眠については、シュタイナーはかなり明確に語っています。参考までに、「薔薇十字の神智学」(平河出版社)から引用してみましょう。実は、現在、このテキストを使って読書会をしていまして、今日(28日)に扱ったところにちょうどありましたので、それを(^^)。

えっと、引用の中にでてくる用語について簡単に解説しておきますと、シュタイナーの神秘学では、人間は、肉体(物質体)とエーテル体(生命体)、アストラル体(感情体)、自我の多次元的構成体とでもいえる存在で、アストラル体は動物と共有しており、エーテル体は動物、植物と共有しており、物質体は、鉱物、動物、植物と共有しているボディです。で、人間は眠っているときには、アストラル体と自我が肉体とエーテル体から離れているのに対して、死んだときには、エーテル体、アストラル体、自我が肉体から離れます。

 では、このことを念頭におきながら、眠りの意味について。

眠っている人は、肉体とエーテル体の外、アストラル体の中で生きています。人間がこのように眠りに落ちなければならないことには正当な理由があります。夜、眠りの状態において、肉体とエーテル体の外にいるとき、アストラル体は不活発で何の働きもしないと考えるべきではありません。(中略)

アストラル体がつねに人間の内にあれば、アストラル体が宇宙の海から携えてきた調和は物質界の強力な影響によってすぐに乱されてしまいます。そして、人間はすぐに病気と疲労によって消耗してしまいます。眠っている間、アストラル体は物質界の印象から遠ざかり、自らの生みの親である宇宙の調和の中に入り込んでいきます。そして、朝、夜の間に体験した若返りの余韻を携えて目覚めるのです。毎夜、アストラル体は大宇宙の広大なアストラルの海の中で若返ります。霊眼に映じる夜のアストラル体は活発に活動しています。アストラルの海とアストラル体の彗星に似た尾との関連が見え、いかにこの尾の部分が不調和な世界のもたらした虚脱状態を除去しようと働きかけているかがわかります。アストラル体のこの活動によって、私たちは朝、活力を感じるのです。夜の間大きな調和の中に生きたアストラル体は、再び物質界に帰ってこなくてはなりません。(P45-48)

 ついでに、夢とはどういう状態なのかということについての部分も、簡単に。 

目覚めと眠りの状態との間に夢があります。アストラル体がまったく、その触手さえも肉体から分離しながらも、まだエーテル体と結びついている状態において、夢のある眠りが出現します。この状態で、人間の視界は夢という映像に浸透されます。この状態は、アストラル体が肉体との結びつきを完全に解いていながらもまだエーテル体に結合しているため、中間状態ということができます。                        (P45)

 

 

アストラル体と自我についてなど

アストラル体と自我についてですが、その理解のガイドとなりそうなところをピックアップしてご紹介することにしたいと思います。ではまず、「魂体」ともいわれるアストラル体について。 

人間の本質の第三の構成要素としてわたしたちが認識するのは、低次の情熱および高次の情熱を担うものであり、人間が内面で体験する快と苦、喜びと苦痛、欲望と衝動すべての担い手であるアストラル体です。アストラル体は通常の思考世界、意志衝動の担い手でもあります。アストラル体も、高次の感覚を発展させることによって、心眼に見えるようになります。アストラル体は雲のように人間を包み、肉体とエーテル体に浸透しています。わたしたちはアストラル体を、動物界と共有しています。アストラル体のなかにおいては、すべてが動いています。心情の動きは、すべてアストラル体のなかに反射されます。どうして「アストラル体」という名前なのでしょうか。肉体がその物質素材をとおして地球全体に関連しているように、アストラル体は地球を包む星界と結びついているからです。 (「シュタイナー教育の基本要素」イザラ書房/P11)

 続いて、自我について。 

第四の構成要素を有することによって、人間は最高の被造物であります。第四の構成要素は、人間が自分にむかって「わたし」といえる能力を与えるものを包括します。「わたし」という言葉は、自分自身についてしかいうことができません。「わたそ」という言葉が発せられるのは、魂のなかで魂の神的な花火が語っているとうことあらわしています。人間がほかの人々と共有する事物に関しては、それらの名称を人が語るのを聞くことができます。しかし、各人が内的な神として自分の内に有する自我は、各人のみが「わたし」ということができるのであって、その自我を指して他者が「わたし」ということはありません。ですから、ユダヤの秘密の学院では、その言葉は「言い表せない神の名」といわれました。ヤハウェという名は「わたしは『我あり』である」という意味であり、司祭が畏怖をもって呼んだ名です。この「わたしは『我あり』である」が、人間に魂を与えたのです。

(「シュタイナー教育の基本要素」イザラ書房/P12-13)

 ぼくは動物や人間と同種の感情があるとは考えていません。もちろん、それは人間の感情が植物に働きかけないということを意味してはいません。そういう意味では、人間の感情は鉱物にだって働きかけることができます。それから、植物、動物といっても、その存在様態はさまざまであって、それを一様に云々することはできないと思いますし、シュタイナーの提示しているのは、あくまでも鉱物、植物、動物、人間というあり方の基本的な相違ということだわけです。

 ここで少し付加的に説明しておかなければならないのは、鉱物にエーテル体、アストラル体、自我がなく、植物にアストラル体や自我がなく、動物に自我がない、といっているのは、この物質世界に存在してはないないということであって、そうした「体」は、高次の世界に集合的なあり方で存在いています。こうした中でもっとも高次の世界にあるのが鉱物の自我なわけで、そこらへんのことを念頭に置いておく必要があります。このことについては、読書会などでも少しご説明すればと考えています(^^)。

 また、植物の世界については、手元にあるものでいえば、たとえば未訳の

●シュタイナー「存在の大いなる問いに対する精神科学の解答」

 という講義集の6章の「植物界の霊」(1910年)などに概説されていたりするのですが、まだ邦訳がないのでご紹介が難しいようです。できれば、そのうちそこらへんのレジュメでもつくることにしたいと思いますが、そこらへんの内容に共通する部分は、たとえば、

●シュタイナー「農業講座」(人智学出版社)

 あたりには、こんな感じで紹介されています。 

あたかも、人間の中の個々の器官が人間の総体的な機構の中に統合されているのと同じように、一つ一つの植物の種類が、植物界の総合的機構の中でその位置を占めているという観点で植物の本質をとらえることが、私の課題です。私たちは個々の植物を全体の中の部分と見なすことができなければなりません。(P100)

 個々の植物を一匹の動物や、また一人の人間と同じように見るのでは、その本質は理解できないというわけです。また、植物には四大霊のなかの特に水の精であるウンディーネなどが働きかけているといいます。ここらへんのことも、まだ未訳の状態ですので、併せてそこらへんのこともそのうちご紹介させていただきますので、気長にお待ち下さい(待ちぼうけだったりして^^;)。