~野口晴哉口述 「愉気法講座(135)」~
≪野口晴哉口述 愉気法講座(135)より≫
愉気するということは、特別な問題ではなくて、人間に言葉が無かったら、もっと愉気しあうことが、楽に上手に行われただろうと思うのです。
他の言葉の無いような動物はみんなそれでも情報を送りあっています。ここに砂糖があったらすぐにアリが来る。そうするとすぐにゾロゾロまた並んでくる。どうして知らせているのか判らない。
きっとそういう愉気で気をおくって、それが感応して、そして方々に知れるのだろうと思うのです。
人間は言葉を持ってしまった為に、そういうことが大分下手になった。
だからここでお話しすることは、人間が言葉を持つ前の問題で、そうお思いになって頂ければ、愉気するという実際はお判りになれると思うのです。
気だけでものを言う、気で心が伝わり、気でいろいろな用が足せる。
宗教以前の存在、まあそういったような、極、プリシティブなもので、理屈言うようなことは何もないのです。
初めは私は愉気は私の力だと思っていた。そして愉気を誰かにして伝えると、その人が出来るようになる。だから一対一でやるのが一番いいのだと思っていました。
そのうちにだんだん大勢でやりあっていくようになると、心さえ一つになれば大勢ほどいいということが判りました。
中略
だいたいどんな時でも、スーッと手を出すと動いてきます。それから動く必要のある人のところに行くと自分の手が出ます。出過ぎてしまっても迷惑ですけれども。
私は子供のうちにはこうやって腕を組んでいないと、手が出てしまいました。こういうのは誰でもある力なのです。皆が持っているのです。
だからその気になれば自分の健康を自分で保ったり、家族の健康を自分で保つことが出来るのです。
それを皆、他人がやるものだと思って。知識でやるものだと思って他人任せにしますが、知識ではないのです。
健康を保つ実際の力は、知識以前の力です。
写真
by H.M. デジカメ