能は芸術か ~野口晴哉著作全集~
《野口晴哉著作全集より》
能は芸術か
前文略
心を或る形に盛り込むことはいろいろの困難があり、これを克服してゆく方法を技術という。
五七五の十七字に天地の動きを盛ってそれを自分の反影として表現することに俳句の技術はあるが、人間は何故このような不自由なことをするのだろう。
心の動いただけの形は自ずからある。それをそのまま何故用いないのか。七十六字の俳句があっても良いではないか。しかし人の心に訴えるものは、訴えたことではなく、訴えられぬ心である。
所作の余白が心を動かすのであり、芸術が心によって心を対象として行われる限り余白を尊ぶのは本当であり、或る形に心を盛り込むことはその余白を拡げることであり、従って余白を活かす為に、或る形への制限が必要になったのである。
その形自身、感覚的に受け入れやすい形を持つだけで、それ自体に心を動かす意味はない。その形をもって余白を活かすことにその形の意味がある。
芸術としての表現の形はそれ故に不自由に出来ているのである。それ故に心が主となる。形は要するに形である。
形が拡がると心の余白がなくなる。感覚的に十二分な表現は心に訴えるものがない。笑うだけ笑ったあとは可笑しくない。泣くだけ泣いたあとは悲しさは残らない。
芸術はその形を如何に簡素なものにするかということに進路がある。いかに慎むか、いかに抑えるか、形の表現は完全な程心から離れる。複雑な形を伝えるのは簡素な心である。複雑な心を伝えるのは簡素な形である。
芸術は先人の形にあるのでなく、その形から余白としての心を創り出すところにある。
創り出すことのないところに芸術はない。
しかし形は創るのではない。
勿論形を真似することでもない。生きたものを産むのである。
しかし形ではない。
絵 筆ペン画
作 H.M.
※絵と本文中の能とは関係ありません