人の和と体を整えることについて ~野口裕介先生(ロイ先生)講義録~
≪野口裕介(ロイ)先生講義録より≫
人の和と体を整えることについて
私の父はよく働いた人で、時代も時代だったのでしょうが、今から考えると驚くべくほどよく働いた人でした。まあ、丸一日休みがあるのは月に一日。三十一日ある月は二日くらいの時もありましたけれども、やすみを取れるのは月に一度くらいのものです。
中略
お手洗いにいく暇もないというくらいに忙しかった。まあ、暇なのはかえって駄目で、忙しいのが好きだったのだろうとも思いますが、、、。
ある時、あまり忙し過ぎてくたびれているのを見かねて、「もう大きくなった人はよいではありませんか。子供や赤ちゃんだけを観たらどうですか?」と言ったことがあります。
もう歳を取った人を観たって、一年か二年寿命が延びたとしてもそんなものは大したことではないではないですかという感じで、私も若かったですからね、そう言いましたけれども、すると父はこうこたえました。
「一人の赤ちゃんを丈夫に育てようと思うと、まず母親の体の状態がしっかりしていなければならない。母親の体の状態を整えておくということは、亭主の体をしっかりしておかなくてはならない。少なくともそこまでは一組で観ていかなければならない」と。さらに、「それだけではなくて、お姑さんも観ておかなければならない。その周りの人も観なければならない。一人の赤ちゃんを丈夫に育てなければならないと言っても、大勢の人を観ていかなくてはならないのだよ」と言われた。
要するに環境の問題ですね。人は集団動物ですから、一人で生きているわけではありません。そこには家族の問題、お姑さんとか小姑さんとか家の問題、また社会の問題と、様々な人が関わってくるわけです。
中略
私は子供の頃学校で、お米は食卓で食べられるところまでくるには八十八の手がかかっているのだと教わったことがあります。しかしTシャツ一枚考えてもとても八十八どころの手ではない。もっと大勢の手がそこに加わっている、シャツ一枚ですらそうなのですから、他のことになればもっともっと手がかかっている。
それで社会が成り立っているわけですが、だから、本当は一人だけを整えるというのは逆に難しいことなのかもしれないとも思う。大勢の人の整う状態、大勢の人の和というものを考えなければならないことも確かで、「人の和」というのが整体だと言っても、ある意味では社会を整えるということも必要なのかもしれないと思わないでもありません。
by H.M. デジカメ