空腹の快感 ~野口晴哉先生語録~
《野口晴哉語録より》
空腹の快感
誰も腹一杯に食べたがって、少し胃袋が軽くなると慌てて食べ物を詰め込むが、空腹の快感を知らないからだ。
腹一杯食べることも快感であるには相違ないが、こらえていた小便や大便を出す快感に比べると大分劣る。しかしその排泄の快感でも、空腹である快感に比べると瞬間の快感であるに過ぎない。
空腹になっていながら空腹の快感を味わえないということは、食べたがって空腹を続けているからであって、要するに食いしん坊だからである。
空腹ということは身軽で働きよいものだ。だから人間以外の動物は空腹になって運動を始める。これを食い物を求めるための行為だと言う人は、空腹の快感を知らないからである。
満腹というものは体がだるくなって眼が重くなって、何をやるにも億劫になるだけのことだ。いつも十分に食べて腹を一杯にしておくことが、働くことが面倒になる理由である。
空腹である快感を知らないようては、食べることの楽しさや快さも本当には分からず、ただ腹が一杯になることが何か気強さを覚えるだけのことだ。
それだのに満腹したがる人々は、食べることの快感を知ったつもりになって、滔々(とうとう)とその楽しさを語るが、果たしてそうかと思う。
その人達はほどよく食えない。もうこれでよいという満腹の快感さえ知らないで、いつまでもいつまでも食べている。これではアヘン中毒の患者がアヘンを求めることと変わりなく、やはり中毒してるとでも言うのだろう。
胃袋には限りがあるので、無限に食べられないので助かっている癖に、もっと食べたら嬉しいだろうなどと、腹一杯になっても眼で食べたがる。
哀れな人達、空腹であることの快感を知らないばっかりに、生きながら餓鬼道に落ちて、食べたいことばかり言い続けて、一日を暮らし、食べ物の顔を見ているより他に楽しさがないように思い込んで、日本が戦争しているその日でも、食べ物の配給の少ない不平を声高々と言う。
心を静かにして、気を落ち着けて、一度でも良いから空腹の快感を味わうつもりになって、食べることを自分から控えていてご覧なさい。空腹の快感を知っている吾々の老婆心である。
写真
byH.M. スマホ