魂の問題 ~野口晴哉先生語録~
《野口晴哉語録より》
魂の問題
人間は生まれ代わり死に代わり、もう既に七千万年生きている。
知識を積み重ねるのも、財産を残そうとして働くのも、家の為、国の為を考えて行動するのも、尚数千万年生きる要求によって動いているので、その一挙手一投足も数千万年生きとおし生きている生命によって動いている。
誰もこう改まって意識もしまいが、その無意識の一挙手一投足にあるこの生きとおし生くる生命を感ずべきではなかろうか。
これを見ない人の寿命は六十年か八十年のうちの或る期間の利害得失を論じ、名を追い、利を追って汲々としているが、人間の真に為す可きことは、五十年や六十年でできることは一つもない。数千年、数万年かけてやり通すつもりでかからねば、何一つとしてできるものではない。
ツァイスのレンズを磨くそれだけのことでも、一代の技術は一代の結果しかあがらない。代々技術を伝えて今日のレンズを造っている。
千年万年、幾千万年生くることを感じて生くる人だけが、魂というものを見るのではなかろうか。
魂があるかないか、その議論はいつまで論じても議論である。何千年來論じてきたことであるが、やはり議論である。これを議論しているより死ぬことが一番早い。死んで確かめれば自分には納得がつく。然らば誰にもここ六、七十年の問題に過ぎない。
しかし、人間には百年、二百年ても判らない問題が沢山ある。誰も彼もが幸せに元気にいつも暮らせるようにするにはどうしたら良いかという身近な切実な問題さえ、昔から今迄考えられてきたが、その途は見つかっていない。こうしたことを実現するよう一歩一歩行動することの方が魂の要求による生き方ではないだろうか。
魂というものは議論によって造るものではなく、裡を静めて感ず可きことのように思われる。
そして魂を感ずれば自ずから永遠の生命に生き、毀誉褒貶も利害得失も一時のことに終わって本当の問題にはならなくなってしまう。三十年か五十年の問題の為あくせくするより、心を静かにして魂の生活を見つけ出すべきではなかろうか。
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by H.M. スマホ