·種をまくとは「希望」であり明日を「信じる」ということ
マノマノ稲穂@manomano_farm
·種をまくとは「希望」であり明日を「信じる」ということです。
雨が降り続こうが曇天の日々が続こうと私たち百姓にとってできることは、いま目の前にあることを丁寧に淡々とやるだけです。環境のせいにはせず与えられた条件を受け入れ、1つではない自分なりの正解を模索し続ける旅なのです。
https://taberuno.com/hatake/233 【もし世界の終りが明日だとしても、
私は今日林檎の種子をまくだろう。】 より
このゲオルギウの言葉には寺山修司氏の本で出会いました。私がまだ学生の頃です。そののち会社勤めをするようになって、開高健さんもこの言葉を少しアレンジしてご自分の色紙に書いていたのを知りました。
あれから30年以上の年月が流れて、私は今、週末農業家として野菜の種を蒔く暮らしをしています。もちろん、ゲオルギウの「林檎の種子」の言葉は農業家の話しではなく、愛や希望、信仰にかかわる言葉です。それでもなを、「種子を蒔く」行為は「種子を蒔く」思いに強く重なる。
畑で種を蒔くことは明日への約束です。3ヶ月とか半年先の収穫を迎えるまで、私は畑に来て、種が芽を出し、葉を拡げ、花をつけて実を結ぶ、その一時一時に立ち会います、世話をします。そういう約束です。畑の土を愛し、畑の作物を愛し、「こうすればきっと」と信じて、豊かな実りへ希望を持つことでもあります。
振り返ってみれば、何回私は種を蒔き、畑に約束したのだろう。何回その約束を収穫したのだろう。
畑を始めた頃は期待感が大きくて、失敗することなど気にも止めなかった。
種を蒔いて、畑に通い、その結果、凄く嬉しかった、幸福感に包まれた瞬間は何回もありました。しかしちょっと残念な結果に肩を落としたこともあるのです。去年は良かったのに今年はダメだった、来年はどうなるのだろう。いくつかの失敗を経験すると不安が先に立つようになる。もちろんそんな不安を取り除くようさらに勉強もしたし工夫も重ねた。それで良い結果に結びつくと嬉しかったが、ダメになるとよけいにヘコむということになる。
今日種を蒔くということに、少し戸惑うようになる。
今年の10月にソラマメとインゲン豆とスナップエンドウの種を蒔くのを忘れました。いや確かに仕事が忙しかったのはあるけれど、種蒔きを忘れるなんてこれまでにないことでした。
もし世界の終りが明日だとしても、私は今日林檎の種子をまくだろう。
この言葉を12月の畑に立ってもう一度かみしめてみました。
畑で種を蒔くことは明日への約束です。しかし、その約束はきっと果たされるとは限らない。
約束は果たされてこそ意味があるのではなく、仮に結果が出なくとも、約束は約束することに意味がある。
愛も信仰も希望さえも、結果は問わない。愛すること、信じること、希望することに意味がある。
「もし世界の終りが明日だとしても」とはそういうことです。
言葉としては分かったつもりでいた。
2015年が暮れていきます。
新しい年2016年はあらためて、私は私の種を蒔こうと思います。
https://www.jxtg-group.co.jp/hanataba/square/wadai/work/0010.html 【「木を植えた男」】
ジャン・ジオノ(著) フレデリック・バック(絵)寺岡襄(訳)
あすなろ書房 1989年12月15日 初版
パイオニアLDCから『「木を植えた男」他/フレデリック・バック作品集』という名でDVDが発売されています。フレデリック・バックの作風を堪能したい方はDVDで見ることをおすすめします。
『木を植えた男』は、1953年にジャン・ジオノによって書かれました。彼は1895年に南フランス、プロヴァンス地方マノスクに生まれ、生涯をこの町で過ごしました。
プロヴァンス地方は気候が激しく、アルプス山脈から冷たい北風がふきおろす土地です。この作品はそれらの環境や自らの体験をもとに、20年以上におよぶ草稿づくりを経て書き上げられ、ヴォーグ誌に発表されて好評を博し、少なくとも12カ国語に訳されました。
ココがいいね!
この物語は、内容もさることながら、短編映画として1987年にアカデミー賞を獲得し、映像のすばらしさで話題になりました。この絵本は、その映画をもとに新たに描き起こして構成されたものです。非常に幻想的に描かれた世界が動きをもって、かつ静かに木を植える男の姿を追い、世の中の移り変わりを表現した作品です。絵本を読むとともに、映画を見ていただければ、またより深くこの世界を感じることができるでしょう。
この本の読みどころ
「優れた人格者の行いは、長い年月をかけて見定めて、はじめてそれと知られるもの」・・・この物語の最初の一言がすべてを語っています。いままで歴史に名を残した偉大な人々は、往々にして生きているうちには認められず、作り上げたものを粉々に砕かれた後でようやく気づかれるということの繰り返しにさらされてきました。しかし、この物語に関しては、若者やその友人の森林管理の役人など理解のある人が登場し、努力が実を結ぶので全体的に読んでいてほっとする内容です。心に余裕が無い殺伐とした者同士の争いや無意味に規制をしたがる役人の存在は時代を超えて存在するようで、その点でも考えさせられる一冊です。