運の研究 3 ~野口裕介先生(ロイ先生)講義録~
≪野口裕介(ロイ先生)講義録より≫
運の研究(3)
生きるとか死ぬとかということでも、つい左に行ったら助かったとか、偶然左に行ったと言っているけれども、それは偶然ではなかったのかもしれない。
反対に、変な方に行ってしまう人もいます。わざわざ右側に行ったがために死んでしまったというようなことを言う人もいます。
そんなように何かが起こったときに取る判断や行動などが、実は体の持っている要素と密接な関係があるのではないかというように考えたわけです。
もちろん、右左だけではないかもしれません。やたらに地下にもぐっていくのが好きな人だって、階段を上がっていくのが好きな人だっているかもしれない。
どちらにするかという時、つい階段を上がってしまうというように、上の方に上の方に行くと正しいのではないかと感じている人もいないとは言えない。ですから、自分の体の動き方というものを少し知っておかなくてはならない。
そういう体の動きというものを観ていくと、ふと体の中から起こってくるその動いていく方向というものを、実は運だと言っていたりするのかもしれない。
ですからめぐり合わせになっていってしまうわけです。例えば死ぬ人を見ていると、やはり或る状態として死ぬ方向に死ぬ方向にと向かっている時があります。
自分でわざわざ死に向かっている。反対に生きる人は、何もしていなくとも、生きるように生きるように回っていく。
そういう意味では、体の持っている力というものが、死に向かっているという状態であれば、それは、何をしても死に向かっていくし、生きる方向にある状態ならば、それは、何をしても生きていく。それもまた自然なのかもしれない。
しかし、それでも何となく、生きるとか死ぬとかいうものの中にも、何らかの形で運というものがあるのかもしれないとも思う。
この間、或る指導者が気を失って倒れたことがありました。その人、気がついてこう言った。「あのまま死んじゃったら楽だったんだけどなあ」と。「あのままだったら何にも苦労なくて、こんなに楽なことはなかったんだけど」と言ってましたが、ちゃんと戻ってくるだけの何かがある。
そういう意味では「生き運」を持っていると、簡単に死ぬこともできないわけです。でも、生きているから運がいいとも一概には言えないのかもしれない。死ぬことができないというのにも不便なことがあるのです。寝たきりで、意識もなく生きなければならなかったりするというのも、やはり生き運ですからね。
さて、そう考えてくると、運の強い人にはタイプがあるようにも思う。
何か運の強いという感じのする人がいます。
皆さんはどんなタイプの人を想像しますか?
私はギューッと閉まってくるようなタイプの開閉型の人を想像します。開閉型の人は運だけで生きているのではないかとも思うくらいです。
捻れのタイプの人は、何となく自分の運を突き進んでいくようなそういう感じを持ちます。
反対に、自分から出すものではなくて、人を呼び込んでくる力というのは、圧倒的に偶数体癖の人が持っています。
偶数的なタイプの人の強さというのは、運を呼び込んでくるみたいな、運を呼び込もうとするような、そういう強さがあります。
ですから運がいいというのではなくて、それが自然にできてしまう。みんなの注意がふっと集まるというようなそういうようなものを偶数のタイプの人は喜ぶし、その時に運がいいと思うのでしょう。
しかも力が発揮できる時であればあるほど、運を呼び込んでいるみたいな感じがあります。そういうのはどちらかといえば偶数タイプの人です。
また誰でもそうなのですが、体に弾力があり、お腹にきちんとした充実感がある状態だと、何となくその人の言うことが通ったり、その人の言う通りになっていったりする。弾力がある状態の方がそういうように動いていくような気がします。
ですから弾力がなくなると運に見放されると言ってもよいかもしれない。硬張った体、動きの鈍さというものがある状態だと、本来あるはずの運を外してしまうかもしれない。
ですから本来運の強い感じの開閉型の人も、縮み切って動けなくなってしまうと、その人の持ってる力が出し切れないという感じで、やはり何となく運に見放されている感じがします。
弾力がなくなってきている状態の人を見ると、何となくそういう感じがする。そういう意味では、体を鈍くして運に見放されている人は、存外いるのかもしれません。
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