本来の人間の心は善である ~野口晴哉先生語録~
《野口晴哉語録より》
人間の本性は悪いものだ、だから躾けなけれぱならないのだという考え方と、人間の心は善いのだ、だから心の中にあるものを呼び出しさえすればいいのだという考え方が昔からあって、共に極端のようであるけれども、丁度光と闇のようなもので、人間の根性は悪いのだという人は、余程根性の悪い人達である。
みんな我が身をつねって人の痛さを知るというように、自分の身から推し測って人の心を見たというだけで、本来の人間の心は善である。
何故かというと、人間は集合動物で、お互いがなくてはお互いに生きられない。そういう構造をしているのだから、いつでも相手の心を我が心とする心が誰の中にでもある。
だから生まれる時に何故オギヤーと言うかというと、人の助けを求めているのである。自分がここに生まれたという主張である。
人の世話にならなくては大きくなれないように生まれるということはおかしなことで、馬だって、像だって、生まれたらすぐに歩けるのに、人間だけは一年たってもなかなか歩けない。大人の保護を受けるようにできている。ということは、人間の心が善であるということを意味している。
だからこそ赤ちゃんは、そんな無用心な保護を受けなければ育たないような格好で生まれてきている。もし善意がなかったら、誰も育ってはいないのだ。
お互いに生命を伸ばそうという心があるから、伸ばす相手も伸びてゆくことが嬉しい。
大きくなって何をするか分からない。自分に噛みつくかもしれない。それても尚伸びてゆくことは嬉しい。お互いの命を助け合うように、人間自体ができている。一人では生きられないようにできている。そういうこと自体が善意の現われである。
その善意の中で心臓が自然に縮み拡がるように、自然の規律がある。余分なものは捨てる。足りないものは受け入れようとする、体だけではなくて、そういう体の反映てある心をお互いがもっている。
それを見ないで、子供を自分の余分な不安のために抑制することが良いことか悪いことか、自分に訊いてみればよい。本当に不安なのか、その心に訊いてみるとよい。
人間はあまり意識で考え過ぎると、時々意識に惑わされて、自分でつくった不安のために人を抑えるということになる。