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やさしい野口整体

天心の愉氣 ~野口晴哉著「健康の自然法」~

2020.07.28 12:16

《野口晴哉著 健康の自然法より》


前文略


触手して愉気することは誰にでもできる。すると体が動き出して、体の全体が健康の方向に進行を開始することは又事実である。それ故、愉気法は誰にでも行えるということになるのだが、気が荒んでいては駄目である。焦っていても沈んでいても駄目である。気は澄んでおらねばならぬ。


強い弱いは使い方でどちらも役に立つが、濁った気、荒んだ気、沈んだ気は役立たぬ。この気を澄ませるということは天心でなければ得られぬ。


欲得の心、利害を考え、人に褒められたい、叱られまいとする心、みんな気を濁らせる。だから、同じ時間愉気をしても、反応は異なり、従って効果も異なる。


天心が曇るという人もいるが、しかし天心は曇らない。雲の上はいつも空が蒼い。雲に光が奪われるのだという人もあるが、赤外線で写真をとってみればすぐ判る。もし、人間の眼か赤外線を感受し、像として映すことができるなら空はいつも曇らない。だから、曇るのは人間の機構によるもので、人間の心か、感受性の問題といえる。


だから、俗念は満ちていても、愉気法は天心で行うということは不可能なことではない。その俗念すら天心の現れなのである。ただその影を力あるものの如く思う為に、自分の心で自分の本来の自由をしばってしまうものだともいえる。俗念があるから天心もある。雲が出るから空の蒼さが判るともいえる。しかしパパの言う天心はこういう比較による天心ではない。


本来ある相としての人間の心をいうのである。これは、むずかしいことだが、愉気法を行うにはこういう理屈を考えなくても、ただやりたい、やってあげたいと感じた時、その感じたように実行すればよい。


それ故愉気法を行うには動機が大切なので、目的の為手段を選ばないという考えはパパにはできない。結果のためにやるのではなく、そのスタートの心が大切なのである。


しかし効果が無くてもよいというのではない。効果をあげる最大の方法は動機が純粋であるということだと言いたいのである。