運動失調と心のはたらき ~野口裕介先生(ロイ先生)講義録~
≪野口裕介(ロイ先生)講義録より≫
運動失調と心のはたらき
(平成18年)
前文略
さらに、後頭骨という頭のここの処に一つの特徴が出てくることがあります。ここに脂のような固まりが着いてしまって、後頭骨自体がもう触れられなくなってしまったり、或いは後頭骨自体の左右の高さに著しく差がついてしまう時があります。それはどちらかというと神経的に少し休まらなくなっている状態を示しています。そこから、その人の持っているある限界みたいなところを観察することができます。
私自身が観てきた経験では、左側が極端に下がってくると、何か自分で自分を傷つけているような空想をしている時のようです。
ですから、左側が著しく低く感じる時はそういう特殊な感受性になっていることがあります。けれども、そういう時は自分では気づいていないものです。ともかくここが著しく歪みやすく、落ちてくるタイプの人というのは、わりに自分で自分を傷つけていく空想をずっと続けているような時です。
しかし、人間は多少そういうことがないといけないとも思うのです。強気一辺倒の人を観ると逆に〝この人、大丈夫かな〟と思ってしまう。
ですから人間は多少歪んでいてもいいのです。自分が内省的になって、傷ついて、〝ああ、なんて自分は馬鹿なんだ〟と思っているのは悪いことではないのです。そうなれない人はこれまた困るのですから、決してそれが悪いとは言えません。
けれども、そうなりっ放しな状態もあります。たいていはそれを心の問題だと思ってしまいがちですが、実はそうではなくて、体の動きが失われている状態、運動失調があるのだということに気づいておかなければいけません。
「これは心の問題です」と言って、心の問題だから心で対処するのだというやり方もわからないでもありません。
確かに人間というのは心の動物でもありますから、心に働きかけることによって、それでその人がハッと気付くことがあったり、自分の心持ちの中で一つの成長というか、フッと自分の心を変えていくということはやはりあるものだからです。
けれども私たちはあえてそれを体の一つの現象として考えていくようにしているのです。意固地になって、体がギュッと固まっている状態の時には何を言ってもわからない。それをいくら頭に言い聞かせても、心に訴えても気が付かないのに、体の運動失調を正すことによってハッと気が付きやすくなることがあるのです。
ですから体をちょっと弛める工夫をしたり、弾力を取り戻す工夫をしたりすると、突然話が通ったり、ものの考え方が変わったりすることは決して珍しい事ではありません。
後文略