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いせはら観光ボランティアガイド&ウォーク協会

伊勢原開村400年ウォーク

2020.07.29 03:59

7月9日(雨で中止)の「開村400ウォーク」用に作成された資料を、転記したものです。


1.伊勢原開村記

伊勢原は千手ヶ原と言った。一面の草原で松の木が9900本植えてあったという。

伊勢の国宇治山田の住人「曽右衛門」、鎌倉の住人「湯浅清左衛門」の両人は大山詣りの途中、この千手ヶ原に野宿したが、ふと水音聞いてこの場所が居住に適することを知り、ここに永住を決定したのである。

当時この千手ヶ原は、旗本5千石の大身成瀬五左衛門の支配である。両人は成瀬五左衛門許可を得て六反五畝程の土地を開き、栗を植えたのがもともとの始まりで、その年の秋には、近村の者も次第にあつまり村落を形成するに到った。元和7年(1621)8月5日に伊勢原村を拓いた山田曽右衛門は没した。伊勢原村に住みついてから僅か3年足らずの短い期間であった。

大神宮の創建と同時に照見山神宮寺が建てられた。開山は雲晴風月、宗派は普化禅僧であった。

明治四年大政官布告もって廃宗され神宮寺も廃寺となった。伊勢原大神宮の釣鐘には伊勢原開村の記録が刻まれいたが、第二次大戦際供出されてしまった。まことにおしまれることである。

始め大山の門前町として発足した伊勢原は、しだいに物資の集散地としても重要な地歩(立場)占め享保年間(1716-1735)には、江戸商人まで加わって「銭相場」が立つほどであった。

伊勢原商店街の西側通りで、今ではすっかり淋しい町並みで静かな住宅地であるが、、旧大山街道で昔の表通りであった。

この街道が県道大磯線に合する手前に「市場と」呼ばれているところがある。東大竹の田中喜代治氏所有の畑に「市神」と刻まれた石の柱があったと言われ、土地の人達から「市神」と呼ばれていたと言う。この付近一帯を「市場」という。


2・いせはらのあゆみ

・平安時代に伊勢原の大部分は糟屋庄(かすやのしょう)と呼ばれる荘園だった。

・鎌倉幕府の創始者となった源頼朝も伊勢原と深いかかわりを持っていた。建久5年(1194)には娘の病気平癒願い霊山寺に20時間をかけて参拝し、その後も使者を遣わして、自らの歯の病が治るよう祈願している。

・室町時代に伊勢原に関わりの深い武士として、太田道灌がいる。道灌は主君上杉定正により粕谷館で謀殺されている。

・明治になると、初年(1868)に打ち出された神仏分離政策により、大山寺をはじめする各地で廃物希釈(はいぶつきしゃく)が激しく行なわれ、相当数の仏像が失われた。

・昭和46年3月1日、県下15番目の市として施行することになった。


3・伊勢原駅

昭和2年(1927)小田急電鉄の伊勢原駅が開業した。これにより大山への玄関口は、「平塚駅」から「伊勢原駅」に代り、首都圏からの参拝者は小田急の伊勢原から大山に向かうようになった。大山の玄関は伊勢原となった。平塚駅開業明治20年(1987)から40年後であった。

伊勢原駅開業当時のことで驚くことがある。なんと「新宿」〜「伊勢原」間の所要時間は1時間7分と現在と変わらないことである。

スピードを出し『ガタ急』と呼ばれたくらい無理をして必死になって走ったのであろう?

昭和3年(1928)の小田急の運行本数は、1時間に(2本)、運賃(98銭)、伊勢原駅の乗降客数は1,112人で、昭和60年には45,480人となった。


4、伊勢原の火伏不動堂

本尊はお不動様(正しくは不動明王)で、お身丈52cm木造坐像である。文化3年(1816)伊勢原に大火が起こった際、猛火はたちまち全町に燃え広がったが不思議にもこの不動堂の所でピタリと火は止まった。人々はこの奇瑞(きずいといって、めでたい事の前に起きる不思議な現象)を目あたりにし、以後「火伏の不動」と尊崇して今に至る。また堂には、見事に彫られた一対の烏天狗の面か奉納されてある(烏天狗は不動明王の使者である)


5・大宝寺

浄土宗(南無阿弥陀仏、なむあみだぶつを唱える)本尊阿弥陀如来

千手観音の由来:

・室町時代の作1尺5寸(45cm)の木造仏  ・相州31番目札所

・東大竹の住人が千手ヶ原に草刈に行き、近くの小池にその光明の光を放つのを見て池の中より掘り出した。

・この地を千手窪(千津窪)という。

・お堂を建てて大宝寺に祀られるようになった。

・門前の石柱には「東国札所31番千手観世音菩薩千手山大宝寺と彫られている。

・女中観音:江戸時代女中奉公に来て伊勢原で死亡した人で、ふるさとに帰らなかった人を祀った観音様で「伊勢作」・「松屋」・「こみや」で働いていた。

・せみ凧発祥の寺でもあり大宝寺第25世加藤明粋和尚の考案で、戦前、戦後を通してよく揚げられた。

・大宝寺に筆子塚があります。塚には次のように彫られているとのことである。小学校教師の古川□□は真面目めな人で、伊勢原町に居住し明治八年六月二四日に病死した」。次の面には「一、壱円也」と17人のの名を記した跡あり(明治時代の壱円は現在の2万円くらい)。

・巨大な数珠の息災願いが大宝寺の夏祭りの時に行われる。巨大な数珠を回す「百万遍念仏回向」に臨み、無病息災を祈った。

輪になった参加者は「南無阿弥陀仏」を唱えながら、木魚の音に合わせて長さ20mの太い数珠回し続けます。金色の阿弥陀如来が埋め込まれた玉の部分が回ってくると、額に近づけて無病息災と延命長寿を祈願する。


6・高札場

木の札に表題、本文、年月日、発行主体が書かれており、これに屋根がついて、人目に目立つ一段高くなった高札場を掲げた場所である。伊勢原では「札の辻」として現在のブックオフ駐車場に面した十字路が、高札場跡地と紹介されています。


7・茶加藤

享保13年(1728)創業開始した。茶加藤の歴史として天正10年(1582)甲州武田家の家臣加藤丹後守景忠に始まる。寛文5年(1665)兵右衛門が伊勢原に移住している。明暦2年(1656)の検知帳で、「八左衛門」が茶加藤と想定される。

商標に(〇に十一)が使われているが、これは(〇に十):「とんとん」、(〇に十二):「もらいすぎ」、(〇に十一)「まあまあ」を意味し商売の方法やり方を示したものである。加藤宗兵衛宅は間口5間4尺(10.2m)奥行き64間(115m)全面の部分は八畳間3つ、六畳間1つ、土門3つ、土蔵もあったという。


8・大福地

田広山最勝院と号し、浄土宗で芝増上寺末寺である。本尊は阿弥陀仏で長さ3尺2寸(97.6cm)で、聖徳太子の作と言われている。大福寺境内には、大福寺の創建された伊勢原開村当時からである楠木がある。これは樹齢400年の大木である。神奈川県指定天然記念物である。平成6年の台風で枝が折れています。大福寺は初め東富岡に建立されたが、その後元和6年(1620)に現在の場所に移されたと言われている。境内に臼田亜浪の句碑があります。『楠のふところ明ろうなって朝寒き』の句碑である。また、伊勢原村開村の1人、宇治山田の曽右衛門のお墓があるが墓石面は削られ判別しにくい状態である。


9・大神宮


大神宮「昭和61年(1986年)神社庁の承認、県知事の認証を得て「伊勢原大神宮」となる。祭神は内宮:天照皇大御神、外宮:豊受姫大神で食物、農業の神、養蚕の神と言われる。

伊勢神宮にならった内宮、外宮の二つの社殿を有する社は、大住郡約70社の神明社はここだけであるという。神宮寺は神社の管理をする別当寺であり、伊勢原の神宮寺は照見山神宮寺と呼ばれ、普化禅宗の寺である。江戸時代虚無僧と呼ばれ免状を懐に尺八を吹き全国を往来した。普化宗は明治4年(1871)大成官布告より廃案となる。神宮寺の地は廃宗後の明治8年(1875)に恢立館(かいりゅうかん)となずけられ、伊勢原小学校の全身となる。

三箸巨然(みつはしきょねん)は、1845-1936年(江戸時代から昭和11年)の伊勢原日向に生まれた俳人です。現在伊勢原市内に6基の句碑が建てられています。ここ神明社では『鶏うたい天の戸あけて神の春』の句碑があります。普化宗は半僧、半俗のような形で、「こもそう」、「ぼろんじ」などと呼ばれ、南朝の忠臣と言われた楠木正勝(正成の子孫)が南朝の再興を図るため普化宗となり「虚無」を号したことから虚無僧とも呼ばれる。

日本に普化宗が伝えられたのは宋に留学した法灯国師覚心が帰朝の時に伝来したもので、建長5年(1253)であった。

関東の普化宗の本山は、下総一月寺(千葉県松戸)、武蔵鈴法寺(東京都青梅市)で、伊勢原の神宮寺の末寺です。神宮寺の住職のうち 6世、7世、8世、9世は本山鈴法寺に住したと言われる。このうち 6世囁山(しょうざん)勇虎は尺八の名手と言われる。

虚無僧について、照見山神宮寺奉賛会々員に聞くことができたので、そのうちのいくつかを紹介します。

①どこまで行ったのか? 沼津まで行った。

②どこを通って行ったのか? 矢倉沢往還を通っていった。

③どのくらいの期間か? 沼津までの場合は、2週間くらい。

④何のため?その場所(行った先)のいざこざなどの調定の他いろいろ、そして世間の情報を入手するため。


※そして普化宗について質問

〇普化宗の発祥の地は? 中国

〇普化宗の発祥の時は? 唐の時代(618-907)

〇日本には?      建長元年(1249)頃に伝わった。

〇誰が?        普化禅師と臨済禅師の二人。

〇誰が日本へ      法燈円明国師が伝えた。

〇日本の何処へ?    紀州由良郡(現在の和歌山県由良町の西方向)

これは「虚無僧」(普化宗鈴法寺の研究山下弥十郎氏発行)の図書にもとに質問したものである。

「愛宕山権現鐘序及命」に愛国神社にはかつて鐘楼ががあり、その鐘に伊勢原大神宮創建の最古の縁起(由来)が書かれていたという。その縁起に神明社創建の事情として「相州伊勢原に天照大臣の祠有り」、「当村草分立発覚」は延宝8年(1680)に草分けの一人であった湯浅清左衛門の子孫で、同じ清左衛門が書いたこの地に関わる最古の文書です。そこには伊勢原の開墾のいきさつが書かれています。


10・御嶽神社

祭神は、日本武命(景行天皇の皇子)16歳にして熊襲(くまそ:九州の南部)を平定して日本尊命の贈り諡名(おくりな)をおくられた。古代中国東方を平定され英知と武勇を発揮される神。

大字田中の鎮守であったが、分村により片町の鎮座となる。

  かさ神さん

祭神:少彦名命(すくなのみこと)江戸時代後期、未だ医学その他発達しない時代、当地で不治の病亡くなった旅の女性を供養するため卵塔の石を祀りました。かさ神様の「かさ」は「かさぶた」の「かさ」のこと。

以後、同じ病名、又、目の悪い人々が藁ををも掴む思いで供養参拝したところ、大勢の方々が快方方向に向かったとされ病気平癒祈願のかさ神さんとして崇められている。