#聖書 #雅歌 - 本当の恋愛 と #AI #ビッグデータ
「聖書の言葉の解釈」様よりシェア、掲載。
ありがとうございます。
たいへん良い内容です。
ぜひ読んでください。
[聖書の言葉の解釈・英文の聖書翻訳]
聖書のより正しい解釈を追求したいために、私が提案する解釈に対して多くのコメントをいただき、議論を盛り上げたいと考えています。
なお、当サイトでは2017年3月9日から徐々に、開設以来まったく扱ってこなかった『スポンサーサイト(広告)』 を全面的に、次第に掲載させていただきます。
2016年05月16日
今日は、『ほんとうの恋愛』とは何かについての、わたしの見方をまとめます。
愛を伴わない性的欲望(性欲)というものがあります。
今、世の中は、そればっかりで満ちている気がします。
それの激しすぎるものを英語で「lust」と呼びます。
「愛のない性的欲望」を満たそうとして実行するのが、愛を伴わないセックス【狭い意味でのセックス(性交渉)を含む広い意味での性的行為】です。
それは、一方的なものですから、半ば暴力的なものでもあり、あるいは、そうではなくてもお互いに利己的なものであって、それは、半ば機械的なもので、場合によっては犯罪的なものです。
「愛を伴わないセックス」:
「愛を伴わないセックス」は、双方が合意していたとしても、また、それが仮に夫婦間のセックスであっても、それは「機械的なセックス」です。
それは双方がそれを形の上で望んでいたとしても、いわば 双方の「自分中心主義、利己主義」に根差して行われるセックスだからです。
ですから、それは、少なくとも、おたがいに、「得ようとする自己満足」以外の何物でもありません。
だから、そこからは、深い喜びや深い満足感は出てこないのです。
もちろん、神様に対する感謝や賛美は出てきません。
『ほんとうの愛』や『ほんとうの良いセックス』は、本来、強い創造力や健康的な活力をもとに生まれて、しかもそれらの一層の増進を生むものですが、「愛を伴わないセックス」には、そういうことはありません。
「愛を伴う性的欲望」としての「恋愛」について:
ですから、いっぽう、 「ほんとうの愛を伴う性的欲望」を、厳密な意味で「ほんとうの恋愛」と呼んでよいと思います。
キリスト教界では、「恋愛」は、多くの派で長らく禁止されてきたようです。
それで、結婚も、恋愛結婚によるのではなく、ほかの人が選んだ「第3者が決定する結婚」が推奨されてきた経緯があります。
それが、極端でない場合には、「お見合い結婚(arranged mariage)」という形で進められました。
しかし、それが極端な場合、「結婚式当日に相手の顔を始めてみるような結婚」が、逆にそれこそ理想的な 「信仰による結婚だ」とされてきたようです。
わたしが長らく居た矢内原忠雄を先生とするカルト集団である、キリスト教を名乗る「無教会主義」派では、それが実際に行われてきた事実が多くあります。
矢内原の次男は、自分の好きな女性と結婚したので、父親に猛反対されて、結婚を長く認められなかったようです。
「一般のお見合い結婚」は、どうしても結婚相手が見つからない場合に、やむを得ず行われるものです。
しかし、上に述べた「極端なお見合い結婚」となると、実は キリスト教を名乗る新興宗教の一つである「統一教会」でも頻繁に行われ、その集団結婚式は有名です。ですから、そうなると、それは純粋な聖書に現れた結婚の様式ではありません。
でも、一般に、見合い結婚の形態は、自然に反するものですから、無理を生み、しかも、自分たちの信仰がそれを支えるという思い込みがあるので、「非常に観念的で傲慢な自信」に基づくものが多数ですから、そうなると実は、逆に罪(スィンsin)そのものなのです。
このように、「恋愛結婚」を禁じる「キリスト教神学」は、とんでもない間違いを犯した「異教的な神学」であったと言わざるを得ません。
もちろん、恋愛結婚なら、どんなカップルでもよいと言うわけでは決してありません。
失恋という形で神様に差し止められなかった恋愛結婚が、悲劇的な結末を生むことは少なくありません。
だからこそ、ここに「理想的な恋愛【必ずしも結婚には至らない恋愛・愛を含みます。】」はどういうものかを書こうというわけです。
『恋愛結婚』にまつわるいろいろな問題について。
なお、「双方のさしあたりの性的欲望を満たす目的で行われる、いわゆる『恋愛』」は、キリスト教界では、長らく、多くの派で、「不倫」、「姦淫」、「浮気」として禁じられてきました。
今でも、たぶん、そうですね。皆さんご存じのとおりです。
恋愛は、ほんらい精神的な結びつきがなくては成り立ちません。
しかし、いっぽう、性的欲望に根差さない結婚も不純と言わざるを得ません。
上に挙げた三つの言葉、「不倫」、「姦淫」、「浮気」は、軽蔑と非難が、初めからこもった言葉です。
それが、性的欲望全般にたいして使われたとき、場合によっては、これらは差別用語にさえなりかねません。
たとえば、日本でも長らく、「いわゆる浮気」によって生まれた子供を父親なしで育てる女性や、子供を産んだあと夫と離婚したり、死別した女性が、「シングルマザー」として、一時期一段低いものとして、軽蔑されてきました。
それを反省して、最近、英語では、「浮気」ではなく価値観や非難の感情がこもっていない「婚外セックス(extramarital relations)」と呼ぶようになってきています。
そしてこの「婚外セックス(extramarital relations)」は、次第に「夫婦間で行われる夫婦交換セックス(swinging)」の考え方にまで進んできました。
そして、「決して子供を産むことにはならない同性間の性的関係や同性婚(the same sex mariage)」までも社会的に容認するように発展してきました。
いわゆるLGBT+と呼ばれる性欲を満たす状況の種類を指します。
それは、「一人セックス」を基本的に容認することが土台になっていると考えられます。
しかもそれらが、すべて「愛」という聖書的な根拠をもとに支持され始めてきたのです。
これらの傾向が、古い宗教的な考え方を持った人々が言う 『人々が神様を見失った結果として行われている間違った「神様に対するスィン・罪」の表れ』なのか、または そうでないのかは、実は重大な問題であります。
わたしは、それらは皆が皆、いつも望ましいことではないとしても、逆に、それらが、かならずしも、神様のもとでの「間違った行為」でも無いと考えています。
そこで、それでは、「理想的な恋愛」のあり方は何かが、大切なことになるのです。
「理想的な恋愛」でなければ、それはむしろ、ある程度、「神様に対するスィン・罪」あるいは「神様に対する申し訳ないこと」であろうと わたしは考えています。
。
『理想的な恋愛』について。
「恋愛」は英語では、「romanntic love」あるいは、聖書では 単に「love」と言います。
それは、人間の間の精神的および肉体的な「強い尊敬」にもとづく「深い愛」のことです。 今日は、その「理想的な恋愛」について書きます。
特に その「恋愛の愛の内容」について、今日は、考えてみたいと思います。
ただ、はっきり申しておきますが、そういう恋愛を罪だと言い切るのは、とんでもない間違いです。
それは、ここで言う「理想的な恋愛の愛」は、尊敬を伴う精神的な愛から始まる「全人格的な愛」だからです。
聖書で「恋愛」と言えば、何よりも、歌の中の歌(雅歌、ソロモンの歌)にそれは描かれています。
これによってわたしたちは「ほんとうの恋愛」とは何かを学べるのです。
歌の中の歌(雅歌)は、この恋愛(人間同士の深い愛)をたたえた歌です。
以下に、歌の中の歌(雅歌)を読んでいて分かる「ほんとうの恋愛」の特徴を 箇条書き的に書いてみます。
歌の中の歌(雅歌)は、ソロモン王の死後600年の紀元前4~3世紀ころに作られた作品で、作者は 一説では女性ではないかと考えられています。
「ほんとうの恋愛」の特徴:
1.二人の男女は、多くのほかの異性と見比べて、相手にすべてに勝る「優れた点」を見出して、相手を尊敬している。
2.相手を神様が自分に与えてくださった存在として、神様を間においてたがいに尊敬している。
3.相手の肉体的な美しさと、精神的な美しさをつねにたたえている。
4.自分の優れた点は、神様が下さったものとして認めていて、自分を卑下しないため、自分の美しさ、自分の優れた点を自認している。。
5.二人とも、その「愛の関係」を後ろめたいとは思っていない。むしろ、それを楽しんでいる。
6.二人が肉体的に、また精神的に結び付くことをたがいに願い、またそれを許しあっている。しかし、相手を傷つけるようなことは避けて、相手の心を無視してまで、無理やりに性交渉をしようとはしない。
7.一般に性的交渉を恥ずかしいこととか、悪いことだとか、変なことだとか、後ろめたいことだとは、さらさら思っていない。
8.そして、相手を自分が独占しようとしない。
≪まとめ≫
男女間のほんとうの愛とは、性欲の充足を目指した愛であると同時に、神様を間に置いての肉体的な一体感だけではなく、精神的な一体感を感じている愛だと思います。
それが、そもそも人間というもの、また人間同士が究極的に目指す「望ましい恋愛」なのではないでしょうか。
そうして理想的な恋愛には、男女双方ともに、生きた深いほんとうの信仰が欠かせないのです。
「理想的な恋愛」が得られる背景にあるのは、おたがいを尊敬し、おたがいのすべてをゆるし、相手を受け入れる「愛」です。
そして、自分ではなく相手を喜ばせることを、おたがいに第一に大切なことと考えることです。
相手を『神様に愛されている人だ』と考える寛容というか、尊敬の心と、相手への理解にもとづいたゆるしの心が不可欠です。
つまり、それには、おたがいに「神様に自分は正しいとされている。」という深い、強い信仰と喜びが必要なのです。
そうでないと、自分の心に喜びがなくなり、後ろめたい気持ちに左右されてしまうからです。
その『確信、信仰の喜び』を可能にしたのが、ジーザス(イエス)からの良い知らせ(福音)だと思います。
人が尊敬されるには、尊敬されるに値する心がなければなりません。
その心とは、ジーザスに赦され、ジーザスを神と仰ぐ心だと思われます。
神様の前にへりくだった謙遜な人だけが、自分が神様にゆるされたことを自覚出来て、
そういう自分の、神様の前での自分の尊さを始めて自覚するからです。
そこに「ほんとうの自信」が生まれ、仕事をしてゆく活力も、すべての人を愛し、あるいは、人を恋する「勇気」も、人を恋する「積極性」さえも出てくるのです。
人を恋するには、そうした勇気が必要なのです。
すべては、この『自分をも含めて、人をゆるし、人を正しいとしてくださる神様からの愛』、
つまり、
『ジーザスからの良い知らせ』こそが、『ほんとうの恋愛』も含め、『すべての愛』の始まりだと、わたしは思うのです。
追記:
ここで、ひとこと申し添えますが、現代でも自分に最も合った異性を見つけることは至難の業です。
それが見つかるまでは、セックスの相手が見つからないとか、結婚できないとなると、若い人は婚期を逸してしまいます。
自分に相当程度合った人に出会えるのは,わたしの経験では、日本では15年に1回くらいの頻度だと思えます。
そこで、結婚は、婚期を逸しないためにも、やむをえず、あまり的確ではない身近な相手と結婚せざるを得なくなります。それが一般の現実だと思います。
これを和らげる、最も好ましい方法は、信仰がある年配の人が、その人に最も合った異性を見つけてきて、その見つけてきた人とお見合いをしたのち結ばれるケースです【この種の結婚は旧約聖書に多く記されています】。
これは、いわゆるお見合い結婚とは違います。
しかし、いまどき、そういう先輩や父親がいることは非常にまれです。
なお、結婚相談所は、あまり役に立たないと思います。将来、AIや詳細な全体的な個人情報やビッグデータを駆使した結婚が出てくるかもしれませんが、相当先の話でしょう。
欧米などの大富豪のように、多額の慰謝料を支払って、離婚・再婚を繰り返すケースもあり得ると思いますが、そうはいかない一般人は、結婚に信仰にもとづく忍耐を持って対処、してゆくしかありません。
しかし、信仰を持って忍耐していると、不思議に最適と思える結婚相手もしくはセックスパートナーに出会えるものです。
そこで、
最適に近い相手に出会えるのは、神様がなさる奇跡なのです。
この結婚難あるいはセックスパートナーが見つからないことを少しでも解消するためには、上にもちょっと書きましたが、
たとえば、日本国民全体の各人の特質や細かい希望を強制的に法律によって登録させ、
コンピューターとビッグデーターとAI(人工知能)を使って、日本国民全体の中から、その人に最も合った異性を探し出す方法をわたしは提案したいと思います。
これが信仰を持って待ち探す以外の方法として、現代の結婚難や少子化を相当和らげる政策の一つだと思います。
それにしても、ほんとうの神様に対する信仰は基本的に必要なのです。
【初音ミク】君は愛されるため生まれた【賛美歌】
mataterestal
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きみは愛されるため生まれた (You Were Born to be Loved) - 松本優香
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// You Were Born to be Loved - Yuuka Matsumoto //
きみは愛されるため生まれた
kimi wa aisareru tame umareta
(you were born to be loved)
きみの生涯は愛で満ちている
kimi no shougai wa ai de michite iru
(your life is filled with love)
永遠の神の愛は われらの出会いの中で実を結ぶ
eien no kami no ai wa warera no deai no naka de mio musubu
(God's eternal love is shown through our relationships)
きみの存在が 私にはどれほど大きな喜びでしょう
kimi no sonzai ga watashi niwa dorehodo ookina yorokobi deshou
(your presence gives me such a great joy)
きみは愛されるため生まれた
kimi wa aisareru tame umareta
(you were born to be loved)
今もその愛受けている
ima mo sono ai ukete iru
(you're still receiving the love now)
もうひとつの実を望まれ (To Bear Another Fruit) - 松本優香 Yuuka Matsumoto
siuo7
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// sung by Yuuka Matsumoto, in Japanese //
主から選ばれて この世に植えられた
shu kara erabarete kono yo ni uerareta
(you were chosen and planted by the Lord into this world)
もうひとつの実を望まれ
mou hitotsu no mi o nozomare
(to bear another fruit)
ありがとう 気づいてなかった
arigatou kizuite nakatta
(thank you, I didn't realize)
どれほど愛されているのか
dorehodo aisarete iru noka
(how much I'm being loved)
初めから今まで神の愛は
hajime kara ima made kami no ai wa
(from the beginning, God's love)
いつも注がれていたこと
itsumo sosogarete ita koto
(has always been poured onto me)
ありがとう その愛 教えてくれた
arigatou sono ai oshiete kureta
(thank you for telling me about this love)
主から与えられたきみに
shu kara atae rareta kimi ni
(you were given by the Lord)
キリストの愛でもっと仕え
kirisuto no ai de motto tsukae
(I will serve you more with Christ's love)
わたしもこの世に仕えよう
watashi mo kono yo ni tsukae you
(and I will serve this world)
きみは愛されるため
kimi wa aisareru tame
(you were born to be loved)
そして その愛 伝えるため
soshite sono ai tsutaeru tame
(and to spread this love)
主から選ばれて この世に植えられた
shu kara erabarete kono yo ni uerareta
(you were chosen and planted by the Lord into this world)
もうひとつの実を望まれ
mou hitotsu no mi o nozomare
(to bear another fruit)
聖書の言葉の解釈
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