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Donuts Films

Congratulations! 銀メダルの味とは

2020.07.29 06:00

嬉しいのに悔しいという味を噛みしめている。

おめでたい報告なのだ。
ありがとうございます!ということなのだ。
なのに、人間の欲深いところなのだろうか”惜しい”ということがより悔しい気持ちにさせる。

先日公開された 工藤祐次郎さんの「リンドウ」MV。
こちらも英語訳をつけて海外の映画祭に応募していた。

海外の映画祭には「Music Video部門」というのが結構あるのだ。

そして、早くも7月、
コシツェ国際マンスリー映画祭
プラハ国際マンスリー映画祭
2つの映画祭のオフィシャルセレクションとしてノミネートしてもらった。

それだけでも拍手なわけだ。

そして、
ノミネートから10日後「winner」が発表されることになっていた。

これはちょっとお腹が痛い。
ノミネートしてもらっただけでも嬉しいけれど、自分の作品がどこまでのものかある種の判決を言い渡される未来日付を突きつけられるのは、

例えば、
告白して「ちょっと考えさせて、10日後に返事するから」と言われるのと似ている。

考えても仕方がないので、あれこれと次なるやるべきことをやりながら、でもやはり意識してしまう自分がいて。

発表当日「連絡もないし、それ以上には行けなかったんだ」などと考えながら日常を送りつつもメールが気になる。

そんなときに「Congratulations」と冒頭に書かれたメールの受信には声が出た。

内容はこうだった。
「あなたの作品はファイナリストとして評価されました。すばらしかったけれど、残念ながら"winner"ではありません」

この気持ちは何だろう。

「勝ち負けではない」ってずっと言ってた。
高校時代、陸上部のマネージャーだった私は、勝ち負けとは別次元のところにいながらも、3年間選手たちの背中を追い続け「ファイト、ファイト」と叫び続けた。
3年生の引退がかかった試合の後、無念の結果となった選手たちに向かって顧問の先生が

「こんなことでは3年間が台無しだ。何の意味もない!」
と言い放ったことに、泣いて怒った記憶がある。

「勝ち負けじゃない、3年間で培った、手にしたことだってあるだろう」って。

でも、私は今回「悔しい」という感情が湧いてしまったのだ。
ファイナリストでおめでたいにもかかわらず。

処女作『カノンの町のマーチ』だって30を超えるたくさんの映画祭に応募したけれど、こちらは全部だめだった。

誰にも観てもらえないって言って、川べりで一人泣いてたの誰だ。

二作目『光をとめる』でやっと、夜空と交差する森の映画祭の上映作品として選出してもらってパソコンの前で声をあげて泣いてたの誰だ。

そう思ったら随分な進歩だし、悔しいと感じる必要なんかないじゃないか。

逆にそう。

きっと、私は勝負とは別次元のところに居たから、

もしくは、「負け」しか知らなかったから、ずっと「勝ち負けではなかった」んだろう。

「勝ち負けではない」って、それだけじゃないって今でも思う。

だけど、悔しいという味も知ってしまった。

オリンピックなどの大会の銀メダルが、もしくは4位入選が、今まではおめでたいこととしか捉えてなかったけれど、本人は、周囲から与えられる拍手や光とは異なる風味を感じるものなんだろうと、36歳にして初めて想像した。

こんな風に悔しい想いを軸に書いてしまったけれど、

審査員の中に「リンドウ」をファイナリストまで推してくれる人がいたことは確実で、

そのことについては本当に嬉しく思う。

私のものづくりの原点って「わたしがいいと思って作ったものを、同じように、いいって思ってくれる人がこの世界にいてくれたら嬉しい」ということなのだから。

なので、勝負というものを知ってしまったとはいうものの、勝負に固執しないように、今までと同じように純粋に作品と向き合いながら、

今回のなんとも言えない苦味を糧にしていけたらと思う。

『光をとめる』挿入歌で使わせてもらった工藤祐次郎さんの「こころ」に

「もうだめだ、と僕は笑う うん、だめやったね と君は笑い返してくれた」

という歌詞が好きで、

改めて、

挑むようなときもあるけれど、大切な人と芋の天ぷらでも食べるような

最終的にはあたたかい食卓に帰着できればいいなと、

そんな風に思った。

今回、コシツェ国際マンスリー映画祭から送られてきたファイナリストの証書は、私にとっての銀メダルとして抱こう。