空想する方向 ~野口晴哉著「躾の時期」~
《野口晴哉著 躾の時期より》
日本では記憶がよいということは頭がよいということに通じる。ところが人間の頭の能力を分析すると、記憶くらい低級なものはない。
馬でも犬でも記憶力はもっている。そういうはたらきは人間よりよいこともある。今日ではいちいち記憶しなくても百科事典が一つあれば間に合う。
記憶というのは、空想するとか、推理するとか、或は総合してよい悪いを決めるとか、自分の位置を定めるとかいうような、頭の働きの補助として必要なものである。
その記憶力を大事にして何でも憶えさせるから、思考力が鈍ってくる。
科学するというのは記憶することではない。科学も、空想力や独創力を徹底するということでなくてはならない。
ところが、方程式を暗記して定められた通りにやることが科学的だと言うが、それは記憶的であって、科学の記憶によって行動するだけのことである。
記憶で、前の人が右に行ったから自分も右に行くという行き方は、決して科学的ではない。
個人個人の要求も違えば体の状態も違うのだから、同じことをやるということは決して現実に即したことではない。
そういうことは科学的という信仰をもって行動していることと少しも変わりはない。
中略
私達はこれからの子供達に、正確だとか記憶だとかいうような、過去の残骸を押し付けることを止めたい。
正確も記憶も、みんな過去のものであって未来のものではない。その過去のものから出発させるという教育を止めて、思いついたこと、思い浮かべたことを育てて創造に直結できるように、日本人のもっている空想性というものを育ててゆきたい。
そうしない限り、将来に向かって出発はできないのである。
車輪のない自動車がもうできてしまった。日本人の中にも十年も前からそれを実現できると確信していた人があった。
私はその人を知っているが、誰もそれを否定した。
アイディアが高く買われているのに日本人は思いつきというと、とかく軽蔑する。どこかの本に書いてあったもの、何かの形式に合うもの、理論に合うもの、どこかに母体のあるもの、外からの尺度で測れるものだけを大事にしている。
過去につながっていないから価値がないとするが、過去につながっていないからアイディアであり、独創になるのだ。
人間がその空想する方向を導きだすということを会得しない限り、やはり過去に縛りつけられる。
記憶だとか正確とかいう過去に縛りつけられているものは、地獄に縛りつけられているのと同じで、天のような自由な動きがない。
何万億あるか判らない星の中の、その一つの地球の中にある法則に縛られて将来に飛べないということは、あまり面白いことではない。
自分達がそうだからといって、これから育ってゆく者をそういう考え方で縛ってしまうということは、人間の力の自由な発揚を妨げる。そう言ってもいいのではなかろうか。
写真
by Hitomi デジカメ