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惜別 弘田三枝子

2020.07.29 13:06

ほんの数週間前、ざんざんぶりの日曜日。ジャズヴォーカルが聴きたくなり、倉庫から引っ張り出してきたのが弘田三枝子の3枚のアルバムだった。昭和50年代前半に録られたいずれ劣らぬ傑作である。ところでミコはいまどうしているのだろうーー。至福のひと時のなか、何故だかそんな心配が頭をもたげていた。



ミコこと弘田三枝子は昭和22年東京都生まれ。幼少期にドラマの子役として世に出た。歌も上手で、その類まれな才能を感じ取った母親は、音楽家・ティーブ釜萢氏(*かまやつひろし実父)のもとへミコを通わせる。天性の歌唱力にジャズのフィーリングが備わり早くにして才能が開花。昭和36年「子供ぢゃないの」で歌手デビューした。


米国のガールポップスを漣健二作詞による日本語のリリックで歌う、いわゆる「カヴァーポップス」が大流行。ミコは時代の寵児となった。他のティーン歌手との歴然たる実力差が「ヴァケーション」の歌唱でわかる。各社競作で5名の歌手によって吹き込まれたが、誰一人としてミコのようには歌えなかった。俗に「パンチのミコ」と称される。日本語を英語のように操る最初のひとりとなった。


カヴァーポップスの流行がひと段落し人気が低迷。69年「人形の家」でカムバックを果たす。最小コンボをバックにしたグルーヴィンな歌唱にJ-POPの源流を見る。すべてにエポックメイキングな存在だった。


今から20年近くまえ、米国の友人から探してほしいと頼まれたレコードがある。「ニューヨークのミコ」がそれで、昭和40年に「ニューポート・ジャズ・フェス」に出演した際、現地で行われたベン・タッカーらとのスタジオセッションを収録したアルバムだった。5桁は下らないプレミア価格から海外での評価の高さがうかがえた。一方、日本ではたまにナツメロ番組に出てお約束の「ヴァケーション」を歌うのが関の山だった。それでもスポットライトを浴びてステージで歌うことを信条とし続けた。


今日もまた朝から降り続く雨。あらためて「My Funny Valentine」を聴いてみる。破格の実力、底知れぬ表現力にただただ酔いしれる。同時に、昭和の終わりを見届けたかのような晴れやかさに包まれる。天国でのセッション。ビッグネームたちが手ぐすね引いて待っていることだろう。