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産めよ、増えよ、地に満ちよ

2020.07.29 14:20

http://toyodasha.in.coocan.jp/sub11/sub11-14.htm【3 「人間主義」という袋小路】より

3-3 起源はヘレニズムとヘブライズム

○神への二つの「負い目」

「デカンチェ」的な考え方は驕りに充ちています。日本列島人が抱く「かたじけない」、「もののあわれ」の受けとめを排除してきました。

では人間が抱かざるをえない「負い目」を、西欧的思考はどう扱って処理してきたのか。

それを探るためには、西欧近代思考の源流に遡らなければなりません。西欧的世界観の基礎をかたちづくったのは、ユダヤ教・キリスト教的世界と古代ギリシャ哲学の二つです。

よく知られるように、「旧約聖書」の「創世記」には、神が天地を創造したことが記されています。神は光と闇をつくり分け、水と大空をつくり、陸と海をつくり、水中と陸上と空に動物をつくりました。次に地上の動物については「家畜」、「地を這うもの」、「地の獣」をそれぞれ分けてつくり、最後に神自身に似せて「人間」をつくった。そして、魚、鳥、家畜、獣、地を這うすべてのものを人に支配させよう、と命じたのです。

 神はご自分にかたどって人を創造された。

 神にかたどって創造された。

 男と女に創造された。

 神は彼らを祝福して言われた。

 「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」  

   (「創世記」1節 『聖書 新共同訳』)

神が人をつくり、そして人が地球を支配できるように命じ、これによって人間は「地上の支配者」の地位を与えられます。

ところが、蛇にそそのかされ、人間はタブーとされた知恵の実を食べてしまいます。禁断の木の実を食べて、自分たちが裸であることに気づき、恥ずかしさを知った。この話は、自分自身に気づくという、人間のあり方を巧みに物語るものでもあります。

タブーを破った人間に対し、怒った神は三つの罰を与えます。第一に人間を死すべきものとすること、第二に女が子を産むとき苦しむこと、第三に労働の苦役です。そもそも人は本来なら何の苦しみもなく楽園で生活できるはずでした。ところが知恵の実を食べてしまったがゆえに、生きる基本で苦痛と苦役を背負いこんでしまった。それが原罪(根源的な「負い」)です。

こうして人間は食べ物を得るために、生涯苦しまなければならなくなります。一生、汗を流してパンを得なければならない。働くことは「苦役」、辛い労働となりました。

「創世記」にみられるこうした世界観の基調は、「新約聖書」を経て西欧近代、そして今日まで生き続けています。そして、原罪で失った「楽園」を取りもどすかのように、そして神の命に応じるかのように、人間は地球上のすべての生き物の「支配者」を目指し、力を拡大してきました。欧米の考え方にはそれが顕著です。

キリスト教ではここに、イエスの贖罪が加わります。キリストは自らの死をもって人びとの原罪を贖ってくれた。これによって、人間はイエスにたいしても根源的「負い目」を抱くことになります。つまり、キリスト教では人間は神に対して二つの根源的な負い目を背負うことになりました。この「負い目」が近代にどのように処理されたのかは、あとでみることにしましょう。

○「地上の支配者」というお墨付き

ここで改めて注目したいのは、創造主である神が人間を「地上の支配者」として命じたことです。神が「自分にかたどって人を創造した」のですから、人間は神に近い存在で、人間以外の生き物すべてを支配下に置けることになりました。知恵の実を食べる罪を犯し、苦しみを背負うことにはなりましたが、それでも人間が「地上の支配者」と認定されたことに変わりはありません。

「創世記」のノアの洪水の物語でも、そのことは繰りかえし示されます。神が天地を創造したあと、人間の悪が地にはびこる。せっかく神に似せて創造したのに、人間は堕落してしまった。神は、人間だけでなく家畜や這うもの、鳥を造ったことを悔やみます。しかしノアだけは神の心に叶う者でした。そこで神はノアとその家族を除いてすべてを滅ぼそうと決める。神はノアに語ります。これから洪水を起こすので、ノアの家族と、すべての被造物の中から一つがいずつ選んで箱船に入れ、と。

見よ、わたしは地上に洪水をもたらし、命の霊をもつ、すべて肉なるものを天の下から滅ぼす。地上のすべてのものは息絶える。

わたしはあなたと契約を立てる。あなたは妻子や嫁たちと共に箱舟に入りなさい。

        (「創世記」六節『聖書 新共同訳』)

そして、洪水のあとに生き残り箱舟から降りたノアを祝福して告げます。

「産めよ、増えよ、地に満ちよ。地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚たちと共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。……   

     (「創世記」九節『聖書 新共同訳』)

ここでも、地上の生物すべてを食糧として人間に与えると神は告げます。洪水のあとに神から「選ばれた人間」が改めて「地上の支配者」であることを認められる。それは神とノア(人間)の「契約」です。 神との「契約」として、人間が地上の支配者であることが認められました。

ユダヤ・キリスト教では、人類は神に似せて創造されました。神の意を受けたのは、唯一人間だけです。地上のすべての存在の中心に人間を位置づけ、人間にだけ価値を認める宗教形態です。つまりキリスト教とは、神のもとでの「人間絶対主義」といえます。

ちなみに、これまで触れたように「創世記」には、神が他の動物と分けて「家畜」を創ったとあります。家畜とは人間が飼育し繁殖させ利用する動物です。すでに神によって家畜が与えられたとするのは、自然が人間のために神によって創られたものであることを端的に示します。いいかえれば、「創世記」がつくられたころ、すでに家畜が存在していて、生き物を人間が支配したいという願望をもっていたことの現れでもあります。

たしかに、人間は人間を中心に考えざるをえない。ただ、「人間」が中心であらざるをえないにしても、自然に依存していることからくる「かたじけなさ」(負い目)を感じられるかどうか、あるいはどう感じるか、で世界観は分かれます。ヘブライズムにはそういう受けとめはみられない。あるとすれば、すべては神への負い目となります。

そして、時代が下り、神への信仰が薄らいでくると、この「人間絶対主義」は後述するように、歯止めをまったく失うことになります。

○二元論を支えるヘレニズム

神による天地創造を説くユダヤ教・キリスト教は、「無からの創造」を原理としています。なにもないところ(無)に、神が天地を創造したのです。

これに対して、もうひとつの西欧思考の源流である古代ギリシャ哲学は、逆に「無からは何も生まれない」を原理としています。とくに古代ギリシャの代表的な哲学者プラトン以降は、揺れ動くもの、変化するものは真実ではなく、動かないもの(不動のもの)こそ真実とされました。

プラトンはいいます。現実とは不完全なものである。たとえば「美」について考えると、私たちがさまざまに「美しい」と感じる現象それ自体は真理ではない。美人であっても、すぐに年老いて美の輝きを失う。地上の美とはそんなもの。「美そのもの」こそが真理である。正義にしても同じです。変化しない不動のイデア(それ自身で存在するもの)こそ真理である、とみなされました。プラトンによれば、現実に存在しているものは「イデアの模像」にすぎない。この社会に存在するものは模像であり、純粋に真なるもの(美そのもの、真理そのもの、正義そのもの)は、普遍的なイデアとして別に存在すると考えました。つまり現実世界と理想世界の二元論です。

プラトンとの違いに努めた「万学の祖」アリストテレスも、この二元論の域を出ていません。

古代ギリシャでは、現実の揺れ動くものや自然にとらわれずに永遠に変わらないものを見極める「観想」(テオリア)が尊ばれました。日々の生活の雑事は、観想を妨げます。それら煩雑な生活の雑事は奴隷に任せる。それが古代ギリシャ哲学の前提でした。

こうした古代ギリシャのプラトンやアリストテレスの著作が西欧に流入したのは一二世紀ごろのことで、しかもイスラム教徒を通じてでした。「異国の先進文化」に接して西欧の人びとはコンプレックスを抱き、同時にギリシャに自分たちの文化のルーツを求めるようになりました。その姿勢は、以降今日に至るまで変わりません。 

○共通するのは自然蔑視

そもそも神による「無からの創造」を説くユダヤ・キリスト教と、「無からは何も生まれない」とするギリシャ哲学は、基本が大きく違います。しかし、二つはしだいにまとめられるようになります。プラトンのイデア説、二元論は、中世になるとキリスト教の教理を支えるものとして利用されます。天上に理想の世界があり、私たちが現に生きる世界はその模造であり、不完全なものでしかないとする二元論は、キリスト教の教えと融合しやすいものでした。楽園から追放された人間の住む地上と、神の国としての天上に分けられる二元論が確かなものとなりました。

また、まったく異質のはずのユダヤ・キリスト教と、プラトン以降のギリシャ哲学は共通の構造をもっています。それは自然を蔑視する態度です。人間は動物の一員であるはずなのに、人間の動物的な規定を切り捨てようとする態度です。人間も自然的存在であるのに、自然に支配されないことが尊いとする価値観です。ギリシャでは自然や大地は、人間の真理追求や観想を妨げるものでしかない。ユダヤ・キリスト教でも自然は人間が支配するべきものです。そこでは自然は、人間が生きるための手段、道具でしかありません。自然を支配する、あるいは自然に左右されない人間(理性)になることに価値を見出すことにおいて、西欧思想の源流であるヘレニズムとヘブライズムは共通します。

キリスト教では、来たるべき「最後の審判」が説かれています。「終末」、「終わり」が基準になって、そこから「いま」がとらえられます。終末観が前提となって、現在のあるべき姿が考えられました。「いま」は、最終目的の視点からみて意味をもつにすぎません。

 さらに近代になると、人間という主体が前面に強く出てきて、神は次第に後ろに下がります。あるいは、神を信仰しなくなります。すると、神による裁きが人間自身による裁きに移ります。「人間」が世界の中心軸になります。理性的人間の自己実現こそ目的に据えられ、「人間絶対」の歴史観に代わります。こうして最終目的に向けて「進歩」を信じる直線的歴史観が強化されます。それが、これからみる近代的な考え方の前提となりました。