Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

新しい地球倫理を問う ②

2020.07.29 14:40

https://sites.google.com/site/jasgse/teigen/h24-10-ti-yan?overridemobile=true 【 新しい地球倫理を問う】 地球システム・倫理学会会長 服部英二  より

ルネサンスは何をもたらしたか?

 ルネサンスを「文芸復興」と訳すことには意味がない。それはあくまでもギリシア的理性の再発見であり、人間宣言であった。人本主義としてのHumanismである。この時、人は神に見られる存在であることをやめ、神を見る存在となる。神さえも「対象」となる。システィーナ礼拝堂でミケランジェロの絵画を見るがよい。キリストさえも人間的に、父なる神さえも老人のように描かれている。新しい教皇を選出するコンクラーベが行われる聖なる場、名作中の名作と言われる絵画に囲まれたこの空間、これはもはや人間の殿堂であり、神の殿堂ではない。聖書の登場人物たちはギリシア神話の主人公たちと同じ扱いを受けているのだ。

上述したように、イスラーム世界とアラビア人のお蔭で12世紀ルネサンスを体得し、古代ギリシアの科学的理性を再発見した西欧は、パリのソルボンヌを中心に、13世紀、スコラ哲学という極めて理性的な神学、すなわち第一哲学を完成させたのであるが、そこで培われた科学的理性は、15世紀以来、自然科学を生みだして行った。Renaissance (re 再naître生)の語 はここでその全き意味を顕わにする。ギリシア的知、エピステーメ(Scientia)とは優れて自然を科学することであったからだ。しかし自然科学の真理は必然的にもう一つの真理、すなわち教会の真理との衝突を惹きおこす。ここにあくまでも単一性を求める真理をめぐって数世紀にわたる壮絶な戦いが繰り広げられるのだが、このことが、多くの人の記憶からは消し去られている。

聖俗の葛藤から生まれた科学革命とその非倫理性

17世紀、地動説の正当性を説いたガリレオの教会による断罪を知ったデカルトは、彼自身の言うところを借りれば「仮面をかぶって歩み出る」。すでに書きあげていた自らの主著”Traité du Monde”(『世界論』 )を封印、教会用語を巧みに使った「第一哲学Prima Philosophia」の名のもと、『省察』Meditatioを書き、神の存在を立証するとしつつ、キリスト教的人格神を葬り去る。それがパスカルをして「デカルトを許すことはできない」と言わしめたものである。

 この教会の真理と自然科学の真理をめぐる葛藤を抜きにしては、ヨーロッパの近代は語れない。教会の真理とは「神の国」のみならず、「三位一体」、「処女の懐胎」、「復活」といった科学的には不条理とされるものを含み、ヨーロッパは長らく二重真理説でこれを切り抜けてきたのであった。つまり価値を問う真理は教会に、価値を問わない真理は科学に属すると言う棲み分けである。端的に言えば、[真理は科学、倫理は教会]という責任分担である。これが実は近代科学の性格を決定することとなった。すなわち「科学は価値を問わず」(Value free)という立場である。注意すべきは、このとき生まれたこの非倫理の立場こそが、ついには化学兵器や原爆という極めて非人間的な兵器の開発に繋がってゆくことである。

 問題は、したがって、近代科学の内包する根本的な非倫理性にある。

 近代科学は中世の黄昏に始まった教会との数世紀にわたる熾烈な戦いに勝利したことにより、鎖から解き放たれた鳥のように、また、発射台の上で点火されたれたロケットのように、ヨーロッパというこの一神教の地から発射されたのであった。これが科学革命であるが、それが神の死と密接に関わっていたことを忘れてはならない。啓蒙主義の到達点としての18世紀末のフランス革命は、王権だけでなく、教権も葬り去った。「人権宣言」には神は存在しない。それは人と人との、更に言えば市民同士の約束である。

7つの大罪

 真理と倫理の棲み分けの一方が破綻した時、哲学者たちが一様に問うたのは次の問いであった。「神なくして道徳は可能か?」これがデカルトにあっても、カントにあっても根本的な問いであった。

近代科学が物質文明を進化させ、医療や通信の改良に大きく貢献したのは確かだが、それ以上に人間の存在と反比例する所有慾を増大させるものとして発展したことに注意すべきであろう。戦争は科学の飛躍的進歩の親となった。そして資本主義の確立がそれを更に助長したのである。それは今や市場原理主義となり、金融工学という犯罪的手法によって、地上の貧富の差を日々拡大させているのみならず、母なる大地の資源簒奪により、このかけがえのない地球を破滅の寸前まで追い詰めるものとなった。

所有は更なる所有への慾を生みだす。ユネスコの報告書『地球との和解』で、かつての国連事務局長ハビエル・ペレス・デクエヤルは、こう述べた。

 「人類が現在罹っている病の原因は『過剰』にあるのであり、『足るを知る』という先賢古聖のいさめを忘れてしまったことだ。」

今、自由の美名のもと、人類は7つの大罪を犯している。マハトマ・ガンディーの言う社会的7つの大罪である。それは、理念なき政治・労働なき富・良心なき快楽・道徳なき商業・人間性なき科学・人格なき教育・犠牲なき宗教である。

そのガンディーはまた、こう言っているのだ。

「世界にはすべての人の需要(need)を満たすだけの資源がある。しかしすべての人の貪欲(greed)を満たすだけの資源はない。」

新しい地球倫理とは?

 文明の本質を問う時、今念頭におくべきは、この近代科学の生い立ちである。それは信仰との闘争の産物であり、人の全人性をゆがめた理性至上主義に基づくゆえに、文化の多様性と他民族の尊厳を認めぬ覇権主義であり、力の文明であった。それを「父性原理」と呼べば、その対極に位置し、今まで未開と軽んじられてきたものの中にこそ、未来的倫理が見出せるのではないか、とわれわれは考える。それは理性・感性・霊性のすべてを和する「母性原理」であり、全人性の倫理である。その母性原理とは、いみじくも鶴見和子が言いきったように、「いのちの継承を至上の価値とすること」である。

 翻ってみれば、父なる神を持ち、やがてそれと戦ったヨーロッパにも、かつては母性原理を生きた時代があった。ケルト文化がそうである。エーゲ海文明もそうであった。そこには大地母神(Magna Mater)が生きていた。ルネサンスに現れる聖母崇拝は実はこの地母神の復活であったと見ることもできる。そうすると科学革命を生んだヨーロッパの根底には、縄文文化を有した日本から韓国、海の中国、インドシナ半島からインドネシアに至る「豊穣の三日月地帯」が共有する「循環するいのち」の文明と通底するものがあるのだ。だからこそエコロジーもここに生まれた。

 しかしながら、明日を思わず、今日の利益を求める市場原理主義は、未来世代に思いを致すことなく経済的成長を求めて止まない。限りない欲望の追求が「自由」の旗印のもとに推し進められている。それはあくなき所有の拡大であり、人間の内的成長とは無関係なのだ。この市場原理主義こそが全世界に格差を増大させ、紛争の種をまき散らしている覇権主義の正体であり、これを終焉させることこそが人類の明日の共生を可能にする条件である。

 希望はエコロジーを生んだ西欧の持つ復元能力である。 ヨーロッパの歴史を見ると、振り子運動のように絶えず自己批判を行う動きが見られる。例えば理性至上主義の時代にあって、それと対峙してバランスを取るかのように生まれたのが、バロック様式やロマン主義であった。

結論

 われわれが知るべきは、地球の砂漠化は人間の心の砂漠化から招来した、ということだ。地球システムを救うには、今こそ新しい倫理が問われなくてはならない。すなわちパラダイムの転換が必須であるとわれわれは信じる。その新しい地球倫理の確立のためには、近代の所有の文化を生み出した理性至上主義すなわち「父性原理」の徹底的な批判、すべての文明の深奥に通底する「母性原理」の見直しが行われなければならない、とわれわれは信じる。「力の文明」から「生命の文明」への転換である。「戦争の文化」から「平和の文化」への移行である。

しかし、その際もっとも注意すべきはバランスである。それは単なる理性の否定であってはならない。人類には父母の双方が必要なのである。われわれの追求する「通底の価値」すなわちすべての民族が分かち合える未来的倫理とは、感性のみによるものではなく、あくまでも互敬の立場に立ち、感性・霊性と響きあう理性によってのみ到達可能なものと知るべきであろう。それを新しい理性主義と呼んでもよい。

世界の現状は、カントやユーゴーの夢見た「世界連邦」の成立には程遠い。しかし「地球市民」の意識の涵養は可能である。何故ならば、ミシェル・セールが奇しくも見てとったように、人間に切り裂かれた自然が、無言のうちに、人間に向かって再結集し始めているとすれば、この状況こそが全人類への「挑戦」challengeにほかならず、それへの「応答」responseが地上の全民族の連帯に求められているからである。

 私は筑波大学の先導する日欧学術協働シンポジウムが、人文科学の領域で「対話」の真の意味を明らかにしてくれることを期待している。対話は自らの変化を包含するもので、「越えていく」こと、他者の尊重による互恵に向かうものである。一つの重要なアプローチは、今まで科学主義の陰に置かれ無視されてきた文化的なもろもろの価値を再発見することであろう。

地上のあらゆる場所で、時の帳に隠れつつ育まれてきた母性原理は、再認識されるべきもの一つであろう。

我々の追求すべきは「深みにおける出会い」である。人類のすべてがおのおのの文化的アイデンティティーを生きながら、その魂の奥底で出会うことである。そこにこそ異なった文明を超えた通底の価値、すなわち新しい地球倫理の基礎、が見出されるであろう。