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Okinawa 沖縄 #2 Day 35 (28/07/20) 豊見城市 (21) Iraha Hamlet 伊良波集落

2020.07.28 14:50

伊良波集落 (いらは、イラファ)


宜保集落を経由して、伊良波集落に向かう。この伊良波集落へは昨年10月2日に一度来ている。その時は、伊良波収容所跡、ウブガー、カマガー (クムイガー)、豊見城歴史民俗資料展示室を訪れた。今回は昨年見れなかった文化財をめぐる。


伊良波集落 (いらは、イラファ)

伊良波は元々玉城に住んでいた人々が平良に移住し、その後、宜保のイランドー原に移り大御嶽 (ウフウタキ) 付近に村を起こしたと言われている。この地を古島とか元島 (ムトゥジマ) と呼んでいる。ここから現在の地に集落を移した。

2014年から人口が増え始め、5年で25%もの人口増加を達成している。何が原因であろうか?

昭和20年の集落の地図。この当時の人口は450人、世帯数は110戸。この当時は比較的大きな字の方だったが、、現在は人口が低い方になっている低い方になっている。

伊良波集落の北側から順に文化財を訪問する。まずは伊良波丘陵にある大御嶽 (ウフウタキ) を目指す。


巫井 (ヌルカー)

県道から伊良波御嶽への入口と思われる道がある。畑の間を道が通っておりその畑のなかに拝所と書かれた札が掲げられたコンクリートの小屋が見えた。地図から見るとここがヌルカーと思う。伊良波集落にはノロはおらず、かつては我那覇ノロによって祭祀が行われていた。この丘陵にある伊良波の御嶽で祭礼を催す前にこの井戸で身を清めたのでは無いだろうか? それでヌルカーと名付けられていると想像。


伊良波之殿 (大御嶽 ウフウタキ) /地頭火神

伊良波集落の北側にタカムイと呼ばれる丘陵がある。ここの付近が古島と呼ばれて、伊良波集落が始まった場所。丘陵の麓には養蜂の箱がいくつも置かれていた。この後に訪れた座安集落の丘陵にも養蜂場があった。この一帯は養蜂が盛んなのだろうか?

表示板は何も出ていないのだが、今まで、色々な御嶽を巡り、大体の御嶽の場所が分かれば、その周りを見渡し、入り口は80%ぐらいは分かる様になってきた。ここと思しき道をすすむとやはり御嶽の入口が見つかった。

日本神道の影響なのだろうか階段を登った所にしめ縄があり、その場所に地頭火神 (ジトーヒヌカン) があった。火の神 (ヒヌカン) は通常自然石を三つ並べた物を祀っているのが殆どなのだが、ここは平べったい石で祠を作りその中に丸い石が一つあった。形式が異なるものもあるのだ。

更に上にすすむと広場が見えてきた。奥に倒木にもかろうじて逃れた三つの祠がある。これが大御嶽 (ウフウタキ) で、琉球国由来記の伊良波之殿にあたるとされている。集落にこれより新しい御嶽があるので、ここは古御嶽と呼ばれている。ここは嶽元といわれる大屋が管理している。


大井 (ウフカー)

タカムイの丘陵の麓にあり、ここからも大御嶽への道があるそうだ。この井戸は三月に行われるカーミーの際に拝まれる井戸。正月の若水もここから汲まれたほど、綺麗な水であったという。


伊良波収容所跡 (2019年10月2日訪問)

ここには沖縄戦で米軍の捕虜となった人を収容する施設が米軍によって造られていた。収容所とは言っても、2-3日ぐらいの期間、一時的に捕虜を集め、男/女/子供/老人、軍人/民間人、ケガ人/病人と分けて収容し、その後、どこに移送するか振り分けるための場所だった。ここは比較的交通の便が良いところであったのと、既に日本軍は糸満の南部に退いていたので、日本軍の攻撃の危険がないという事で選ばれた。日本軍の抵抗が収束する昭和20年7月まで使われていた。


産井 (ウブガー) (2019年10月2日訪問)

収容所跡の広場の道路を挟んだ所に産井 (ウブガー) がある。子供が産まれた際の水撫で (ミジナディー) の儀式に使われた。


カマガー (クムイガー) (2019年10月2日訪問)

産井 (ウブガー) の隣にもう一つ井戸がある。人が亡くなった際にこの井戸の水を汲んで、死者の顔を三回拭く儀式に使われていた。クムイとは溜池の事で、この井戸の前は池があり水場となっていた。集落住民が洗濯や水浴びをする場所であった。収容所に留め置かれた人々は産井とカマガーを使っていたのだろう。


伊良波新御嶽 (新御嶽 ミーウタキ)

集落の東側にある。ここは集落の先祖の墓 (アシジー) と考えられている。伊良波集落の元 (ムトゥ) の墓とも言われ、また別の言い伝えでは琉球王朝時代の薩摩侵攻時に亡くなった人を集めて弔った墓ともある。琉球国由来記にある伊良波之御嶽ではないかとも言われているが、はっきりとはしない。現在は綺麗な墓の拝所になっている。四つの香炉が置かれそれぞれは、「御嶽元」、「国元」、「南勢利前」、「国元」と書かれている。なぜか「国元」が二つある。この御嶽は集落の国元の上ヌ前門中 (インメー) が管理している。

かつての御嶽の写真が豊見城村史に載っていたが、この写真は新しい墓の奥にある古墓を見つけたのだが、それの様に思える。


上ヌ前門中 (インメー) 神屋

上ヌ前門中 (インメー) は伊良波集落の国元 (クニムトゥ) 集落を政治的のまとめてきたリーダーの門中。新御嶽を管理している。家の前庭に大きな神屋が建てられている。門を入り敷地内にあるので、お詣りもしないので、中に立ち入る事は失礼なので、道路から撮影。


大屋神屋

この伊良波集落の嶽元 (タキムトゥ) であった大屋 (ウフヤ) 門中の神屋が民家の前庭に建っている。この嶽元 (タキムトゥ) は文字通り、伊良波の殿 (大御嶽) を管理している。神屋は多くの場合、家の中では無く、村の人々が訪れやすいように、門を入った所に独立した小屋で祀っている。この門中の祖先を祀っているのだが、それはその門中に限定したものでは無く、村全体での信仰の対象になっているのが、沖縄祖先信仰の特徴で、それが今でも続いている。


神屋

どこの門中の神屋かはわからないが、プレハブ小屋が神屋になっている。恐らく以前ここに住んでいた有力門中の神屋であろう。今は家もなく広い空き地にポツンとある。想像では、この門中は血筋が絶えてしまったのか、転出したのか、そして村で神屋を造って祀っているのかもしれない。そうであれば、村にとって大きな影響力のある門中だったのだろう。


ヘーガー

集落の南にある井戸で、ここも拝所としての井戸だ。見つけにくい所にある。この付近に井戸がある事を知って探さないと見つからないだろう。家と家の間の細い路地の向こうにある。ここで集落はなくなり、一面畑となる。井戸の横に果物が実った木がある。マンゴーの様なのだが、畑で栽培されているマンゴーと少し実のつき方が違うので調べてみると、野生のマンゴーの木であった。一本しかないので、商売で栽培されているのではなく、手もかけてもらえず自然に育ったマンゴーの木だ。こちらのほうが個人的には好みだ。

ちなみに畑で育っているマンゴーとの比較がこれ。左は長堂集落で撮った栽培されているマンゴー。葉の形も違う。沖縄ではマンゴーは本土と比べて安いのだが、スーパーでは見切り品を一個数十円で売っているので、時々買って食べる。見切り品とはいえ、非常に美味である。


伊良波公民館 (アシビナー)

公民館はかつての村屋では無く、遊び場 (アシビーナ) に建てられている。昔は遊び場 (アシビーナ) で集落の行事が行われていた。公民館の前は広場になっている。今でも祭りなどがここで行われているのだろうか?


メーミチ/ナカミチ

アシビーナを所に南北に前道 (メーミチ) と東西に中道 (ナカミチ) が走っている。ここが集落の中心地であった。

集落内には沖縄伝統工法の平屋の民家が幾つかあった。


ハマガー

集落から西にかなり外れた場所に、地図にはここに井戸があるとなっていたが、それ以外の情報は全く無い。


豊見城歴史民俗資料展示室 (2019年10月2日訪問)

2019年10月2日にこの伊良波周辺に来た時、一番に来たかった所がこの展示室。少し時間をかけて見学をする。豊見城市が運営している。主に豊見城市の歴史風俗を中心に展示していると言う。地域で運営している博物館は千差万別で、体裁だけつけている無気力な所や、よく考え工夫して本当に伝えたい事を試行錯誤で行なっている所など色々だ。この展示室は半分以上が沖縄戦についてのもので、沖縄戦の被災者の証言をテーマ毎に取材してビデオ編集までしていた。生の声を後世に伝えることは素晴らしい。取材はとても骨の折れる事だったと思う。多くの人が思い出したくないと言ってた口を開かない中、根気よく証言を集めまとめあげている。全てを見ると多分一日では終わらないだろうが、そのダイジェスト版が40分ぐらいに編集しているものがあったので、それを見た。内容はやはり重いもので、先に訪れた豊見城グスクにあった旧陸軍第24師団第二野戦病院壕に配属された積徳高等女学校学徒看護隊の生存者のインタビューでこの病院が閉鎖となり、糸満へ南下していく途中に道の至る所に死体が転がっていたが、もう見ても何とも思わなかったと言っていた。戦争により通常の感覚が麻痺していた。別の人達は、那覇から移ってきた日本兵に家や避難壕を占領され、追い出され、戦火の中をさまよったと証言していた。戦争の残酷さだけでなく、軍国主義が生んだ荒廃してしまった人の考えや行動も赤裸々に証言していた。ある意味で、沖縄の人は米軍兵以上に日本兵に怒りを持っていた様に思えた。米軍兵は国と国の戦いで敵として攻撃する事は、感情とは別の次元では理解できるが、味方であるべき日本軍の沖縄の人達への惨さには憤りが大きかった事を感じる。それ以外の展示では、沖縄の民衆の伝統的な生活様式の展示に力を入れていた。数ヶ所に跡があった龕屋も展示していた。この龕屋については那覇では全く見られなかったので、この地域の特徴なのであろうか?

質問事項


参考文献


第10節 字伊良波 

位置 

伊良波は東に山をへだてて上田に接し、西に与根、南に座安、北に我那覇、名嘉地がある。宜保、上田、伊良波の境界にナービグムイがあるが、このあたりまで大昔は海 (入江) であったという話があり、志茂田平野は海に流れて来た土石や潮が運んで来た砂がたまってできた平野だといわれ、伊良波は与根より土地は低いといわれている。


古島

伊良波は現在の部落の北東、古御獄の東側に部落があったとのことである。この古島は北、東、北西風共にあたる場所であったため、南北に走っている丘の西側に移動したようである。現部落の東丘下に新御獄を仕てて拝んでいるところからみると、移動したのは古い時代だと考えられる。新御獄の管理は神元といわれている上前が、古御嶽は嶽元といわれる大屋が管理している。


拜所

由来記中の御獄に伊良波の御獄があり、伊良波の殿があるが、前記の古御獄と新御獄とをさすのではないかと思う。新御獄、古御嶽とも字民により尊崇されている。祭祀は我那覇祝女によって行なわれた。同祝女の管轄下にあったのである。

拝所としての井泉は由来記中にはダゴ川がある。現在先祖原に二ヵ所の井泉があって崇めている。


祖先、地組、世立

伊良波の世立初は千草之巻によれば「伊良波村、新北山の御子屋比久里主在所」とある。祖先宝鑑には (古北山系統図参照)

古北山の子屋比久里主「在所は豊見城伊良波村の地組み始められて、その村に住す。子は四男三女あり、長男は宜保村に行き、二男より相続す」とある。

他組始めについては千草之巻には地組始め「伊良波村、東大里より来る当名大親在所」とある。これ祖先宝鑑からみると東名大親はなく東名大主として「東名大主、在所は大里与那原村新里と云う家なり、此の当名大王は親子共大東より古北山と連れて本島へ御渡りたる御方なり云々」とあるが、此の人と東名大親は同一人か、親子かであろう。

右の屋比久里主と当名大親の子孫については不明である。

伊良波の上前、大屋は玉城村字玉城仲嘉の御酒手表に記載されているからその子孫だと思われる。

祖先生鑑に玉城按司の裔孫中、豊見城邑 (間切) 伊良波松川門中とあるから松川は玉城按司の子孫であると考えられる。しかし松川は旧小暮村松川部落田原から分家して来たものだという。なお松川村の字地組した人は玉城同村大屋からの分れである。