プラトン著『ソクラテスの弁明』
史上最も有名な裁判が
後世に突きつけてきたものは
205時限目◎本
堀間ロクなな
紀元前399年にギリシアのアテナイで、おそらく史上最も有名な裁判が行われた。いまや70歳のソクラテスが不敬神の罪に問われて死刑の判決を下されたのである。このときまだ28歳だった弟子のプラトンが激しい衝撃を受けて、ドキュメンタリー・タッチの『ソクラテスの弁明』を著したことにより、西欧哲学の歴史が本格的な幕を開ける。逆に言えば、もしこの裁判がなかったら、哲学の開始ゴングはまったく別の形で鳴らされたことだろう。
わたしがいま読み返してみて、最も琴線に触れるのは法廷でのソクラテスのつぎの弁述だ(三嶋輝夫訳)。
何となれば、諸君、死を恐れることは、実は知者ではないのに知者であると思いこむこと以外の何ものでもないからです。すなわち、知らないことを、知っていると思いこむことなのです。実際、だれ一人として死というものを知りもしなければ、ひょっとするとそれは人間にとってありとあらゆる善いものの中でも最大の善であるかも知れないということも知らないくせに、それが災いの中でも最大のものであるということをまるでよく知っているかのように恐れているのです。そして、まさにこのことが、どうして無知、それも最も恥ずべき無知でないことがありましょうか。
みずからを見舞おうとする死に対して、この態度はどうだろう? あまりの泰然自若ぶりがかえってユーモアを感じさせるほどではないか。
むろんソクラテスに教えられるまでもなく、われわれはこれまで死んだ経験がない以上、本当のところ死とは何かを承知しているわけではない。だとしても、そうした前提と、もしかしたら「ありとあらゆる善いものの中でも最大の善であるかも知れない」という推定とのあいだには、かなりの懸隔が横たわっているはずだ。そして、わたし自身、だんだんと死が身近に迫ってくるつれ、この懸隔にこそ死を見つめるための奥義があり、それを埋めていくプロセスが哲学ではないか、と考えるようになった。
英国の哲学者ホワイトヘッドの「西欧哲学の歴史とはプラトンへの膨大な注釈である」という指摘は広く人口に膾炙しているけれど、寡聞にして、『ソクラテスの弁明』が提起した「死=最大の善」の可能性について明確な注釈が施された例を知らない。つまりは、たんに頭の上の思索だけでは埒が明かず、おのれの生きざまをまるごと賭して向き合う態度が求められるなかで、その後の哲学者にはソクラテスとプラトンの師弟に匹敵するだけの豪胆な精神の持ち主がいなかったということなのだろう。
わたしの知るかぎり、もし先の弁述に対抗しうるものがあるとすれば、仙厓義梵(せんがいぎぼん)のいまわの言葉ではないだろうか。
死にとうない 死にとうない
ほんまに ほんまに
仙厓は、江戸時代後期のひと。日本最古の禅寺である筑前博多・聖徳寺の住持をつとめ、軽妙洒脱な書画でも人気を集めていたところ、あるとき揮毫を求められて「父死、子死、孫死」と書き与え、相手が面食らうと「子は死んで父に先立たず、孫は死んで子に先立たず。天下にこんなめでたいことはない」と応じたとか。そんな人物が87歳の天寿をまっとうしようとする最期の床で「死にとうない 死にとうない」と口にして、耳を疑った弟子たちが聞き返すと「ほんまに ほんまに」と続けたと伝えられている。
はるかに時代や地理・文化を異にしながらも、死を目の前にしていささかも心揺らぐことのない両者の姿に、わたしは叱咤される思いがするのである。