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アインシュタインの予言

2020.07.31 12:56

http://www.owaki.info/Einshutain/yogen.html?fbclid=IwAR3-YM5Pr5clz0_32MAOY_JS1gdIlfBmHvavm1LdGd3h6ZNlxsuIgvaAOjE  【アインシュタインの予言 中澤英雄】

映画「アインシュタインの豫言」

アルベルト・アインシュタインの予言――といっても、質量はエネルギーに変換されるとか、光が重力によって曲がる、などといった物理学上の予言ではない。アインシュタインが「日本が世界の盟主になる」と予言したというのである。多くの書籍、雑誌、インターネット・サイトに、彼が語ったとされる次のような言葉が引用されている。

「近代日本の発展ほど世界を驚かせたものはない。一系の天皇を戴いていることが今日の日本をあらしめたのである。私はこのような尊い国が世界に一カ所ぐらいなくてはならないと考えていた。世界の未来は進むだけ進み、その間幾度か争いは繰り返されて、最後の戦いに疲れるときが来る。そのとき人類は、まことの平和を求めて、世界的な盟主をあげなければならない。この世界の盟主なるものは、武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を抜きこえた最も古くてまた尊い家柄ではなくてはならぬ。世界の文化はアジアに始まって、アジアに帰る。それにはアジアの高峯、日本に立ち戻らねばならない。われわれは神に感謝する。われわれに日本という尊い国をつくっておいてくれたことを」

「予言」にはいくつかのヴァージョンがあり、引用者によって文言が微妙に異なっているが、右は千葉大学名誉教授・清水馨八郎氏の『今、世界が注目する「日本文明」の真価』に掲載されている文章である。昨今の皇室典範問題の中で、お茶の水女子大学教授・藤原正彦氏など、この言葉に言及する人が時々見られる。

一九二二年に来日したアインシュタインが大の親日家になったことは事実である。その時のアインシュタインの様子については、金子務氏の『アインシュタイン・ショック』や杉元賢治氏編訳『アインシュタイン日本で相対論を語る』などに詳しい。しかし、この言葉はちょっとほめすぎ、というよりも、「一系の天皇」とか「尊い国」とか「世界の盟主」というのは、あまりにも皇国史観的ではなかろうか。アインシュタインが本当にそういうことを語ったのだろうか――という素朴な疑問から文献を調べてみた。

その結果、判明したことは――大部分の引用者は出典を明記していない。出典らしきものがある場合も別の本からの孫引きで、その引用元には出典が書かれていない。来日当時の日本の新聞、雑誌には、このような言葉はどこにも掲載されていない。よく出典として言及される雑誌『改造』のエッセイ「日本における私の印象」にも、こういう文章はない。彼のドイツ語、英語の著作にも対応する文章はない。

しかもアインシュタインは元来、社会主義的な信条の持ち主で、天皇(制)には無関心であった。また彼は日本人と日本の政治・外交を区別し、満州事変以降の日本の対外政策を厳しく批判している。そのアインシュタインがあのような手放しの日本礼賛をするとはとても考えられないのである。

いったいどこからこのような奇妙な「予言」が生まれたのであろうか? 調査の過程で思いもかけない文献に出くわした。田中智学の『日本とは如何なる国ぞ』(一九二八年)という本の中に、「予言」ときわめてよく似た文章が存在したのである。田中智学は、日蓮主義の宗教家、国柱会の創設者、戦前の日本国体思想に多大の影響を与えた思想家で、戦時中によく使われた「八紘一宇」は、彼が日本書紀の「八紘為宇」という語句を使って造語したものである。ただし智学の本の中では、この言葉は、伊藤博文も明治憲法の制定に先立ちその講義を聴いた、一九世紀ドイツの国法学者ローレンツ・フォン・シュタインが、明治の元勲・海江田信義に語ったものとされている。そこで、『明治文化全集』に収録されているシュタインの海江田への講義録を読んでみると、そこには「予言」のような内容は含まれていなかった。つまり、智学はシュタインにかこつけて自分の信念を述べた、というのが真相なのである。

私は当初、智学版「シュタインの予言」がいつの間にか「アインシュタインの予言」に誤解されて広まったのだろう、と考えていた。ところが、私の調査が朝日新聞六月六日夕刊で紹介されたところ、フィルム・幻灯研究家の松本夏樹氏から驚くべき情報が寄せられた。一九三〇年代初めに「アインシュタインの豫言」と題された無声映画が制作されていたというのだ。その映画を拝見させてもらったところ、まさに例の「予言」が一種のSF映画に仕立て上げられているではないか。田中智学の本が出版されて間もないころに、何者かが意図的に「シュタイン」に「アイン」を付加し、アインシュタインの名前を国体意識発揚のために利用したのである。その背後にいかなる組織があったのかは、劣化の著しい映画からは読み取れなかったが、おそらく日本陸軍が関与していただろう、というのが目下の推測である。  

                  東京大学教授(言語情報科学専攻/ドイツ語)

アインシュタインの言葉 ~尊い国~

 近代日本の発達ほど世界を驚かしたものはない。その驚異的発展には他の国と違ったなにものかがなくてはならない。果たせるかなこの国の歴史がそれである。この長い歴史を通じて一系の天皇を戴いて来たという国体を持っていることが、それこそ今日の日本をあらしめたのである。

私はいつもこの広い世界のどこかに、一ヶ所ぐらいはこのように尊い国がなくてはならないと考えてきた。なぜならば、世界は進むだけ進んでその間幾度も戦争を繰り返してきたが、最後には闘争に疲れる時が来るだろう。このとき人類は必ず真の平和を求めて世界の盟主を挙げなければならない時が来るに違いない。

その世界の盟主こそは武力や金の力ではなく、あらゆる国の歴史を超越した、世界で最も古くかつ尊い家柄でなくてはならない。世界の文化はアジアに始まってアジアに帰る。それはアジアの高峰日本に立ち戻らねばならない。我々は神に感謝する。神が我々人類に日本という国を作って置いてくれたことである。

                        アインシュタイン

上記は、月刊「致知」に掲載された「アインシュタインの予言」東京大学大学院教授・

中澤英雄氏が同誌に寄稿されれたレポートです。

以下、本記事の概要をまとめてみます。

結論から申し上げますと、この有名な予言は19世紀のドイツの有名な国法学者シュタイン博士が海江田信義に語ったとされる言葉を紹介した、国体思想家・田中智学の著書「日本とは如何なる国ぞ」(1928年)がオリジナルのようです。

ちなみに「八紘一宇」という言葉は、「日本書紀」の語句を用いた田中智学の造語です。また、石原莞爾は田中智学の弟子であり、田中智学の思想は石原莞爾の有名な「最終戦争論」へと受け継がれたました。

「日本とは如何なる国ぞ」の中にある、オリジナルを以下に引用します。

そんな立派な歴史があればこそ東洋の君子国として、世界に比類のない、皇統連綿万世一系の一大事績が保たれているのである。世界の中にどこか一ヶ所ぐらい、そういう国がなくてはならぬ、というわけは、今に世界の将来は、段々開けるだけ開け、揉むだけ揉んだ最後が、必ず争いに疲れて、きっと世界平和を要求する時が来るに相違ない。そういう場合に、仮りに世界各国が聚ってその方法を講ずるとして、それには一つの世界的盟主をあげようとなったとする、さていかなる国を推して「世界の盟主」とするかとなると、武力や金力では、足元から争いが伴う、そういうときに一番無難にすべてが心服するのは、この世の中で一番古い貴い家ということになる、あらゆる国々の歴史に超越した古さと貴さを有ったものが、だれも争い得ない世界的長者ということになる、そういうもんがこの世の中に一つなければ世界の紛乱は永久に治めるよすががない。果たして今日本の史実を聞いて、天は人類のためにこういう国を造って置いたものだということを確かめ得た。

田中智学「日本とは如何なる国ぞ」より引用

たしかに、アインシュタインの予言にそっくりです。

しかし、海江田信義によるシュタイン博士の講義の筆記録と、「日本とは如何なる国ぞ」に

紹介されて言葉とは大きく異なるものだそうです。

実は、この予言は田中智学自身の思想であり、「日本とは如何なる国ぞ」より以前の著書

「天壌無窮」(1915年)にはこのような記述があります。

「世界の将来には、一度は必ず世界をあげての大戦乱が来り、各国ともそれにこりごりして、真の平和を要求する様になる時が来て幕が開く、その時こそ、かねがねこの平和の為に建てられた日本は、勢い「最後平和の使命」を以って登場して、世界渇仰の下に、この始末を着けてやらねばならぬ役回りとなる。

世界各国が自国の利益を追求して抗争しているかぎり、世界はいずれ大戦乱に見舞われる。世界が混乱の極みに達したときに、日本(の天皇)を中心にして世界平和が樹立される。世界統一(八紘一宇)、世界平和の実現こそ、神国にして法華経国である日本に生まれた日本人の果たすべき天業(天命)である。

中澤英雄氏によると、神武天皇の建国神話と日蓮の予言を結びつけた田中智学自身の

この思想を、シュタインの名を利用して「日本とは如何なる国ぞ」に記述。この「シュタイン名義」の予言が、一、何者かによってアインシュタインにすりかえられた。ニ、名前の類似から、誤解されて流通した。この二つの仮説のいずれかによって、「アインシュタインの予言」となったとのことです。

アインシュタインと日本(1) 中澤英雄(東京大学教授・ドイツ文学)2005.28

アインシュタインと日本 Part 2 2005.6.26

中澤氏への反論  検証中:     

アインシュタインの予言 ウィキペディアより

アインシュタインの予言は、アルベルト・アインシュタインの発言として流布されている。

約300文字程度の言葉である。「近代日本の驚くべき発展」を賞賛し、「来たるべき

世界政府の盟主は日本が担うことになるであろう」と予言している。さらに、「そのような

尊い国を作っておいてくれたことを神に感謝する」と続く。

ドイツ文学研究者の中澤英雄は、2005年(平成17年)に「アインシュタインがこのような

趣旨の発言をした例は一例も存在しない」とする論証を提出した。

概要

この文章の初出は明確ではないが、1950年代に遡ることができる。以降書籍・雑誌で

引用・再引用が繰り返され、インターネットの普及後はウェブ上の記事においても多数

引用されている。度重なる引用と孫引きによって、文章が一部抜け落ちていたり、一部

の語句が書き換えられていたりと、現在様々なバージョンが流布しているが、大筋では

大同小異である。以下に典型例の一つを挙げる[2][5]。

近代日本の発達ほど、世界を驚かしたものはない。

この驚異的な発展には、他の国と異なる何ものかがなくてはならない。

果たせるかなこの国の、三千年の歴史がそれであった。

この長い歴史を通して、一系の天皇をいただいているということが、今日の日本をあらせしめたのである。

私はこのような尊い国が、世界に一カ所位なくてはならないと考えていた。

なぜならば世界の未来は進むだけ進み、その間幾度か戦いは繰り返されて、最後には戦いに疲れる時がくる。

その時人類はまことの平和を求めて、世界的な盟主を挙げねばならない。

この世界の盟主なるものは、武力や金力ではなく、凡ゆる国の歴史を抜き越えた、最も古くまた尊い家柄ではなくてはならぬ。

世界の文化はアジアに始まって、アジアに帰る。

それはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。

吾々は神に感謝する、吾々に日本という尊い国を、作って置いてくれたことを。

この言葉は「日本人の愛国心をくすぐる内容」と宣伝され、再三に渡って引用されており、古いものでは今村均の1956年(昭和31年)の著書『祖国愛』に、また、名越二荒之助の1977年(昭和52年)の著書『新世紀の宝庫・日本』においても存在が確認できる[2]。最近のものでは、2005年(平成17年)の『世界の偉人たちが贈る日本賛辞の至言33撰』で紹介されている[6]。しかし、この文章の出典とされる雑誌『改造』1922年(大正11年)12月号(アインシュタイン特集号)には、該当の文章は存在しない。

偽書説

2005年(平成17年)、ドイツ文学研究者の中澤英雄・東京大学教授(当時)は、この発言がアインシュタインのものであるという確定的な典拠は存在せず、またアインシュタインの思想とは矛盾する内容であると発表した。中澤は、この「予言」の原型を宗教家の田中智學が1928年(昭和3年)に著した本『日本とは如何なる國ぞ』の一節であると指摘した[1][2][3][4]。以下にそれを記す。

故高崎正風氏が特に私に傳言して呉れと話された談に、曾て海外へ派遣された海江田子爵が丸山作樂氏を伴れて獨逸のスタイン博士を訪問した時、スタイン博士が、日本の歴史を訪ねられた所から、丸山氏は得意に日本開闢以來の?史を要説して、日本君民の現況を話したら、博士は非常に驚いて、『どうも日本といふ國は、舊い國だと聞いたから、これには何か立派な原因があるだらうと思ツて、これまで訪ねて來た日本の學者や政客等に就いてそれを訊ねても、誰も話してくれない、私の國にはお話し申す樣な史實はありませんとばかりで、謙遜ではあらうが、あまりに要領を得ないので、心ひそかに遺憾におもツて居たところ、今日うけたまはツて始めて宿年の疑ひを解いた。そんな立派な?史があればこそ東洋の君子國として、世界に比類のない、皇統連綿萬世一系の一大事蹟が保たれて居るのである、世界の中にどこか一ケ所ぐらゐ、爾ういふ國がなくてはならぬ、トいふわけは、今に世界の將來は、段々開けるだけ開け、揉むだけ揉んだ最後が、必ず爭ひに疲れて、きツと世界的平和を要求

する時が來るに相違ない。さういふ場合に、假りに世界各國が聚ツて其方法を議するとして、それには一つの世界的盟主をあげようとなツたとする、扨ていかなる國を推して「世界の盟主」とするかとなると、武力や金力では、足元から爭ひが伴う、さういふ時に一番無難にすべてが心服するのは、この世の中で一番古い貴い家といふことになる、あらゆる國々の?史に超越した古さと貴さを有ツたものが、だれも爭ひ得ない世界的長者といふことになる、そういふものが此の世の中に一つなければ世界の紛亂は永久に治めるよすがゞない。果して今日本の史實を聞いて、天は人類のためにかういふ國を造ツて置いたもの

だといふことを確め得た』と言はれて、大層悅ばれたといふ事で、子爵が歸朝早々葉山なる高崎氏を尋ねて話されたといふことで、それを高崎氏の知人なる吾が門人某に托して私に傳へられた。私はこれを聞いて、左もこそと思ツた。 田中巴之助、田中 1928, pp. 30 f.

ただし、田中はこの言葉を大日本帝国憲法制定に大きな影響を与えたドイツ人法学者ローレンツ・フォン・シュタインの発言として紹介しており、「予言」はアインシュタインのものではないとされている。

中澤は「シュタイン」と「アインシュタイン」という名前の類似性から、流布の過程ですり替わってしまったとし、また内容的にシュタインの思想とも食い違っており、シュタインの発言ではなく、田中による創作であると考察した。つまり、田中がシュタインを狂言回しに自らの思想を語ったものであり、それに細部の改変が加えられて「アインシュタインの予言」となり、現在に流布したのであると論証した。

この「予言」がアインシュタインのものではないという話は、2006年(平成18年)6月7日付の『朝日新聞』でも取り上げられ、中澤は「海外からみたらアインシュタインをかたってまで自国の自慢をしたいのかと、逆に日本への冷笑にもつながりかねない事態」と語っている[6]。また、アインシュタイン研究を行っている板垣良一・東海大学教授(物理学史)は、「アインシュタインはキリスト教徒でもユダヤ教徒でもなく、神にこだわらない人だった[7]」とした上で、彼が残した日記や文献の上でも日本の天皇制に言及したものはなく、この発言を「アインシュタインのものではない」と断言している[6]。またアインシュタインは、「私にとって神という単語は、人間の弱さの表現と産物以外の何物でもない。聖書は尊敬すべきコレクションだが、やはり原始的な伝説にすぎない。」「ユダヤ教は、ほかのすべての宗教と同様に、最も子どもじみた迷信を体現したものだ。私もユダヤ人の1人であり、その精神には深い親近感を覚えるが、ユダヤ人はほかの全ての人々と本質的に異なるところはい。私の経験した限り、ほかの人間より優れているということもなく、『選ばれた』側面は見当たらない」とも書き残しており、信じてもいない神に感謝することなどありえない[8]。

また、原田実『トンデモ日本史の真相』では、ここに収録された『予言』とほぼ同じものが、大本教の教義解説書『大本のしおり』1967年(昭和42年)刊に、「スタイン博士」の言葉として見られると指摘している[9]。もう一つの「アインシュタインの予言」「第二次世界大戦では原子爆弾が兵器として利用されましたが、第三次世界大戦が起こったら、どのような兵器が使われると思いますか?」というインタビューを受けたアインシュタインが「第三次

世界大戦についてはわかりませんが、第四次大戦ならわかります。石と棍棒でしょう。」と答えた

というもの[10][11]。これは「予言」というよりはむしろ、第三次世界大戦は全面核戦争である故、人類文明の崩壊は必然であるという「警句」である。

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アインシュタインの見た日本

 アインシュタインが日本で見たもの、それは人びとが慎み深く和して生きる世界だった。

■1.アインシュタインの感動■

大正11(1922)年11月17日、アインシュタインを乗せた日本郵船の北野丸は、

瀬戸内海を通って、神戸港に近づいた。フランスのマルセイユを出てから、1カ月

以上の船旅だった。瀬戸内海の景色について、アインシュタインはこう記している。

 私の好奇心が最高潮に達したのは、「北野丸」が日本の海峡を進むとき、朝日に

照らされた無数のすばらしい緑の島々を見た時でした。[1,p140]

 景色ばかりでなく、その時に同乗していた日本人船客らの態度も、アインシュタインを感動させた。

 しかし、いちばん輝いていたのは、日本人の乗客と乗組員全員の顔でした。いつもは朝食前に

けっして姿を見せたことのない多くの華奢なご婦人たちは、一刻も早く祖国を見たいと、ひんやり

とした朝風も気にせず6時ごろにはいそいそと甲板に出て、楽しげに歩き回っていました。私は

そうした人々を見て深く感動しました。

 日本人は、他のどの国の人よりも自分の国と人びとを愛しています。・・・[1,p140]

 これが、アインシュタインの40日以上に渡る日本滞在の始まりだった。

  ■2.「神秘のベールに包まれている国」■

 アインシュタインの来日は、改造社の山本実彦社長からの招待によるものだった。

山本氏(改造社)から日本へ招待いただいた時に、私は数ヶ月を要する大旅行に行こ

うとただちに意を固めました。それに対する私の説明しうる理由というのは、もし私が、

日本という国を自分自身の目で見ることのできるこのチャンスを逃したならば、後悔し

てもしきれないというほかありません。

私が日本へ招待されたということを周囲の人びとが知ったその時、ベルリンにいた私

が、あれほどまでに羨望の的になったことは、いまだかつて、私の人生の中でなかで経

験したことはありませんでした。というのも、われわれにとって、日本ほど神秘のベー

ルに包まれている国はないからです。[1,p140]

当時の日本を限りない愛情を込めて西洋に紹介したのは、ラフカディオ・ハーンで

あった[a,b]。アインシュタインはハーンの著作を読み、日本への期待を抱いていた。

来日後、彼は次のような手紙を親友に認めている。

やさしくて上品な人びとと芸術。日本人はハーンの本で知った以上に神秘的で、その

うえ思いやりがあって気取らない。[1,p117]

当時のヨーロッパは、第一次大戦が終わったばかりの荒廃した状態だった。多くのヨー

ロッパ人は、現代西欧文明の精神的な行き詰まりを感じていただろう。それに対して日

本はいまだ「神秘のベールに包まれている国」であった。

■3.熱狂的な歓迎■

 11月17日に神戸に上陸したアインシュタインは、京都で一泊。翌朝、東京に向

かった。

朝、9時から夕方7時まで雲ひとつない空の下、展望車に乗って東京まで汽車旅行。

海、入り江を通過。雪に被われた富士山は遠くまで陸地を照らしていた。富士山近くの

日没はこのうえなく美しかった。森や丘のすばらしいシルエット。村々は穏やかで綺麗

であり、学校は美しく、畑は入念に耕されていた。・・・

 東京に到着! 群衆に取り囲まれ、写真撮影で凄まじいフラッシュを浴びた。無数

のマグネシウムをたく閃光で完全に目が眩む。[1,p17]

この情景を翌日の大阪毎日新聞は大きな写真入りで、こう伝えた。

東京駅で人びとが絶叫----「アインシュタイン!」「アインシュタイン!」「万歳!」

怒濤のごとく群衆が博士に殺到し、東京駅は大騒ぎとなった。日本人の熱狂ぶりを見て、

駅に博士を出迎えたドイツ人関係者らは喜びのあまり目に涙を浮かべる人さえいた。

[1,p19]

この熱狂的な歓迎について、アインシュタイン自身こんな談話を残している。

 私の生涯に、こんあことはありませんでしたよ。米国に行った時も大騒ぎでしたが、

とてもこんな赤誠はありませんでした。これは日本人が科学を尊ぶためでしょう。ああ

愉快だ、心からうれしい。[1,p17]

■4.「6時間におよぶ講演に聴衆が酔った」■

 11月19日には、アインシュタインは長旅の疲れをものともせずに、慶應義塾大学

にて6時間もの講演を行った。読売新聞はこう伝えている。

6時間におよぶ講演に聴衆が酔った----慶應義塾大学での日本初の講演は内容は「特

殊および一般相対性理論について」。1時間半から3時間の講演後、1時間の休憩をは

さみ、講演が再開され8時半に閉会。実質6時間の長講演にもかかわらず、2000人以上

の聴衆は一人として席を立たず、アインシュタインと通訳石原純の一言一言に静粛かつ

真剣に聞き入っていた。理屈が理解できる、できないにかかわらず、皆アインシュタイ

ンの音楽のような声に酔いしれたという。[1,p20]

その後も、東京帝国大学での6回連続の特別講演、東京、仙台、京都、大阪、神戸、

博多での一般講演などが続いたが、どの会場も盛況で、千人単位の聴衆が集まり熱心に

聞き入った。

アインシュタインがいかに分かり易く説いたとしても、これだけ多くの一般的な聴

衆が、相対性理論をよく理解し得たとは思えない。東京駅での熱狂的な歓迎、そして講

演での熱心な聴講態度は、何が原因だったのだろう。

■5.「外国の学者に対する尊敬の念」■

12月10日、京都に戻ったアインシュタインは、講演後、京都御所を訪問し、「御所

は私がかつて見たなかでもっとも美しい建物だった」との感想をもらした。

中庭からは即位式用の椅子がある即位の間が見えた。そこには約40人の中国の政治

家の肖像画があった。中国から実のある文化を日本にもたらしたことが評価されたため

である。

外国の学者に対するこの尊敬の念は、今日もなお、日本人のなかにある。ドイツで学

んだ多くの日本人の、ドイツ人学者への尊敬には胸を打たれる。さらには細菌学者コッ

ホを記念するために、一つ寺が建立されなければならないようだ。

 嫌味もなく、また疑い深くもなく、人を真剣に高く評価する態度が日本人の特色で

ある。彼ら以外にこれほど純粋な人間の心をもつ人はどこにもいない。この国を愛し、

尊敬すべきである。[1,p95]

「外国の学者に対するこの尊敬の念」は、日本人の伝統だが、近代西洋科学への尊敬

はまた格別の念があった。富国強兵は、世界を植民地化しつつある西洋諸国から国家の

自由と独立を護るための日本の国家的課題であった。そして経済力にしろ、軍事力にし

ろ、その根幹は近代西洋の科学技術にあったからだ。

そしてアインシュタインこそ、その西洋近代科学の最高峰を体現する人物であった。

当時の日本人が、彼を熱狂的に歓迎し、その講演に陶酔したのは、「外国の学者に対す

る尊敬の念」という伝統と共に、近代西洋科学の国家的重要性を国民の多くが感じ取っ

ていたからであろう。

■6.「微笑みの背後に隠されている感情」■

日本は明治以降、ヨーロッパに多くの留学生を送り、西洋近代科学を学び取ろうと

していた。アインシュタインは来日前から日本からの多くの留学生と出会い、ある印象

を抱いていた。

 われわれは、静かに生活をし、熱心に学び、親しげに微笑んでいる多くの日本人を

目にします。だれもが己を出さず、その微笑みの背後に隠されている感情を見抜くこと

はできません。そして、われわれとは違った心が、その背後にあることがわかります。

[1,p140]

日本滞在中、講演と観光の合間を縫って、アインシュタインは多くの日本人と会った。

長岡半太郎や北里柴三郎ら日本を代表する科学者、学生、ジャーナリスト、そして一般

家庭の訪問まで。そして「微笑みの背後に隠されている感情」が何かに気がついた。

 もっとも気がついたことは、日本人は欧米人に対してとくに遠慮深いということです。

我がドイツでは、教育というものはすべて、個人間の生存競争が至極とうぜんのことと

思う方向にみごとに向けられています。とくに都会では、すさまじい個人主義、向こう

見ずな競争、獲得しうる多くのぜいたくや喜びをつかみとるための熾烈な闘いがあるの

です。[1,p141]

全世界の植民地化、そして1900万人もの死者を出したと言われる第一次大戦は、この

「熾烈な闘い」の結果であろう。

■7.「日本人の微笑みの深い意味が私には見えました」■

 それに対して、日本人はどうか?

 日本には、われわれの国よりも、人と人とがもっと容易に親しくなれるひとつの理

由があります。それは、みずからの感情や憎悪をあらわにしないで、どんな状況下でも

落ち着いて、ことをそのままに保とうとするといった日本特有の伝統があるのです。

 ですから、性格上おたがいに合わないような人たちであっても、一つ屋根の下に住

んでも、厄介な軋轢や争いにならないで同居していることができるのです。この点で、

ヨーロッパ人がひじょうに不思議に思っていた日本人の微笑みの深い意味が私には見え

ました。

 個人の表情を抑えてしまうこのやり方が、心の内にある個人みずからを抑えてしま

うことになるのでしょうか? 私にはそうは思えません。この伝統が発達してきたのは、

この国の人に特有のやさしさや、ヨーロッパ人よりもずっと優っていると思われる、同

情心の強さゆえでありましょう。[1,p142]

「不思議な微笑み」の背後にあるもの、それは「和をもって貴し」とする世界であっ

た。

■8.「自然と人間は、一体化している」■

日本人の「個人の表情を抑えてしまうこのやり方」のために、アインシュタインは日

本滞在中も、その心の奥底に入り込むことはできなかった。

けれども、人間同士の直接の体験が欠けたことを、芸術の印象が補ってくれました。

日本では、他のどの国よりも豊潤に、また多様に印象づけてくれるのです。私がここで

「芸術」と言うのは、芸術的な意向、またはそれに準じ、人間の手で絶えず創作してい

るありとあらゆるものを意味します。

 この点、私はとうてい、驚きを隠せません。日本では、自然と人間は、一体化して

いるように見えます。・・・

 この国に由来するすべてのものは、愛らしく、朗らかであり、自然を通じてあたえ

られたものと密接に結びついています。

 かわいらしいのは、小さな緑の島々や、丘陵の景色、樹木、入念に分けられた小さ

な一区画、そしてもっとも入念に耕された田畑、とくにそのそばに建っている小さな家

屋、そして最後に日本人みずからの言葉、その動作、その衣服、そして人びとが使用し

ているあらゆる家具等々。

・・・どの小さな個々の物にも、そこには意味と役割とがあります。そのうえ、礼儀

正しい人びとの絵のように美しい笑顔、お辞儀、座っている姿にはただただ驚くばかり

です。しかし、真似することはきません。[1,p142]

「和をもって貴し」とする世界で、人びとは自然とも和して生きてきたのである。

■9.アインシュタインの警告■

 明治日本が目指した富国強兵は、西洋社会の闘争的世界に、日本が参戦することを

意味していた。国家の自由と独立を維持するためには、それ以外の選択肢はなかった。

しかし、闘争的な世界観は「和をもって貴し」とする日本古来の世界観とは相容れない

ものであった。

 また富国強兵を実現するために、明治日本は西洋の科学技術を学んだ。しかし、近

代科学の根底には、自然を征服の対象として、分析し、利用しようとする姿勢があった。

それは自然と一体化しようとする日本人の生き方とは異なるものであった。

 西洋近代科学を尊敬し、アインシュタインを熱狂的に歓迎した日本国民の姿勢は、

彼が賛嘆した日本人の伝統的な生き方とはまた別のものであった。両者の矛盾対立につ

いて、アインシュタインはこう警告している。

たしかに日本人は、西洋の知的業績に感嘆し、成功と大きな理想主義を掲げて、科学

に飛び込んでいます。けれどもそういう場合に、西洋と出会う以前に日本人が本来もっ

ていて、つまり生活の芸術化、個人に必要な謙虚さと質素さ、日本人の純粋で静かな心、

それらのすべてを純粋に保って忘れずにいて欲しいものです。[1,p144]

科学技術の進展から、人類は核兵器を持ち、地球環境を危機に陥れてきた。アインシュ

タインが賛嘆した人間どうしの和、自然との和を大切にする日本人の伝統的な生き方は、

いまや全世界が必要としているものである。(文責:伊勢雅臣)