『玉しゃぶりやがれ(2)』著者:片側交互通行
※前回の『玉しゃぶりやがれ(1)』はこちら
2
木槌の音で目を覚ました。
弁護士が腰を上げている。睡魔と戦い始めたところまでは覚えていた。まあいいや、と思ったら眠りに落ちた。
やはり裁判は刑事事件に限る。民事は退屈でしょうがなかった。後か先か、払ったとか払ってないとか子供の喧嘩のようなものだ。
開廷表を見るために一階に降りる。開廷表はその日裁判が行われる事件の一覧が乗っているものだ。開始時間と何の事件が行われて、被告人の名前と審理予定、判決なのか初公判なのかがわかるようになっているファイルだ。
ロビーに降りると、学生なのか若い女性が開廷表を見ていた。彼女は髪を後ろで縛り、顔に掛からないようにピンで止めていて聡明な印象を受けた。きれいな女性を見ると格好をつけたくなるのは男の性。ただし、格好の付け方は十人十色である。ある者は髪型を意識して、ある者は忙しそうに振る舞い、ある者は口説き文句を言ってみる。私の場合は興味が無いようにクールを装う。内心声をかけてもらいたいと思っている。決して自分から声を掛けるタイプではない。何を話してよいのかわからないからだ。私も今の世に蔓延る軟弱な男性諸君の一人に数えられる意志薄弱な性格の持ち主だ。
したがって彼女もできず、できない割に彼女ができたあとのことばかりを妄想したりする。
目の前の彼女と付き合ったら、一緒に裁判傍聴をして、落ち着いた喫茶店で静かなる熱い議論をしてみたり、美術館で彼女の意見に傾聴する良き理解者の自分を思い浮かべる。
そんな事を考えていると彼女はどの事件を聴くのか決まった様子で立ち去る。幸いにも彼女は見ていたページをそのままにしていたので、どの裁判を聴くのか推測できる。
見れば新件の事件は一つしかない。残りは審理だったり判決が並んでいる。恐らくこの覚せい剤取締法違反だろう。
ここで彼女がどの裁判に行ったかわかったが、追いかけてしまってはいかにも下心丸出しだと思われる。衝動的ストーカー行為になってしまう。いつぞやの被告人と同じだ。それでは心証が悪くなってしまう。ここは彼女とは違った事件を傍聴することにした。あとで『偶然』再会するという方がより演出的だろう、という打算が働いた。
かくして私は退屈極まりない公務執行妨害の事件を終えロビーに戻る。
果たして彼女の姿はなかった。
下りてきた以上引き返して探すというのもみっともない。後ろ髪を引かれながらも地裁をあとにした。どうせ彼女のことも明日になれば忘れてしまうのだ。今までがそうだった。
外に出ると湿度は高くないが暑さを感じた。夏になる直前の快と不快のどちらにも振れるような日だ。木陰は気持ちがいいかもしれないが、日なたは日差しがきつい。コンクリートジャングルにいると不快の側に針が傾く。
「アイ、ヘイチュー」
と口にしながら駐輪場に行きロードバイクを出す。街のサラリーマンはハンカチを手に汗を拭い、女性は日傘を差す人が多い。薄着で露出した彼女たちの白い肌に目が行く。触ってみたい。二の腕に、首筋に、ふくらはぎに、膨らんだ胸に。彼女たちを連れて歩く男たちに横目に相も変わらず妬ましさを胸にしまい、汗だくで臭いが立つことも気にせず車道をひた走る。
公園に寄って晩御飯の食材を調達する。
オオバコにツユクサ、スベリヒユを摘んでベンチに座る。持ってきた蚊取り線香に火をつけてそのまま寝転んで本を読み始めた。ドストエフスキーの『罪と罰』だ。裁判所に通う者として、これくらいの知識は身につけたいという考えが半分以下、教養を身に着けて尊敬されたい気持ち半分以上のやや打算的で邪な腹づもりから読み始めたのだ。読み始めたのはいいのだが、冒頭が終わる前に気持ちが折れそうだった。
段落がねぇ。
読んでいると言うよりは、発音できる記号を追っているようなものだ。それでも読み続けているのは、『罪と罰』を読んでいることが誇らしいと思っているからだ。本質的な読書の意味を失っていることは自覚している。
「お楽しみのところすみません」
顔を上げると気品のある女性が立っていた。着ているものにどこか質の良さが伺えた。
「はい。何でしょう」
体を起こして立ち上がる。
「ドストエフスキー読まてるんですね」
てな具合に上手い話に出会うこともないとは言えない。
宝くじも買わなければ当たらない。ドストエフスキーだって読まなければ話もできない。
そして誰に話しかけられることもなく夕方になり帰宅した。
調理は面倒なので雑炊となった。本日も食費はゼロだ。
夜勤前に漫画に少しだけ筆を入れて一眠りした。
店の扉を開けると見知らぬ女性がカウンターの中にいて、私に気がつくと挨拶をしてきた。
「いらっしゃいませ。会員証はお持ちですか」
笑顔がとても可愛らしく、胸が高鳴った。裁判所で見かけたきれいな女性は頭から消え去り、目の前の女性が強く印象に残った。素朴な顔立ちで前髪が横に一直線にカットされている。
「あの、夜勤の者です」
「あ、はじめまして久留巣茜と言います。今日から出勤です。よろしくおねがいします」
彼女はハキハキした口調で自己紹介をした。それに対して私の自己紹介は名字だけを伝える程度にゴニョゴニョした喋り方だった。
キッチンに入ると臼井さんがすでに来ていた。
「おはようございます」
「おお、加藤さん、来ましたね」
臼井さんはいつ会っても楽しそうだ。感じが悪い日というのがない不思議な人だ。
「新人さん可愛い感じの子でしたよね。声優の専門学校に通ってるらしいですよ」
久留巣さんの情報を色々教えてもらった。臼井さんは現在彼女さんと同棲しているだけあって女性に何の抵抗もなく話すことができる。その余裕に時々嫉妬を覚えることもあるが、臼井さんは誰とでも平等に接するので汚れた感情もすぐに消える。
「加藤さんのこと話したら興味持ってくれましたよ」
「照れますね」
鼻の下が伸びているのが自分でもわかる。
「二人がデビューしたら俺をマネージャーにしてくださいよ」
「臼井さんでしたら是非こちらからお願いしたいですね」
「とりあえず加藤さんの漫画家デビューですね」
「頑張ります」
「でアニメ化して久留巣さんが声担当したら最高じゃないですか」
可能性の低い未来かもしれないが悪い気はしない。むしろ満更でもない。その可能性の低い未来が具体的なイメージを思い起こさせる。あわや妄想に入り込むところに清掃を終えた久留巣さんが戻ってきた。
臼井さんがよくある新人との仕事の会話をする。そこにうまく私にも会話のチャンスを投げてくれるが、上手いアドリブができずに焦りを覚える。
こんな感じだ。
「店の食材ですけど、ばれない程度につまみ食いならオッケーなんで」
と臼井さんが言う。
「え? いいんですか? 店長知ってるんですか」
「半分黙認している感じですね。在庫管理してませんし」
「適当なんですね」
「久留巣さんは嫌いな食べ物ありますか」
「私はイカがだめですね。あの食感が受け付けないんです」
顔をしかめながら言った。よほど嫌いなのだろう。
「加藤さんは何かありましたっけ」
これは多くの人にとって本当にありがたい一言なのだが、受け手が全て台無しにすることが多い。
「私はセロリが苦手なんですけど、実はこれ、すごく重要なんですよ」
「セロリが嫌いということですか」
臼井さんは私の比較的役に立たない無駄な知識を楽しそうに聞いてくれる数少ない人なのだ。すると、気が緩んで余計な講釈を始めてしまうのは悪い癖なのだが、やはりこういうときも行動と思考を切り離すことができずに周りを見ずに話し始めてしまう。
「逆にですね、人間に好き嫌いがなくて全員が何でも食べるとしますよね。そこでその食べ物が腐っていたり、寄生虫とかが入っていた場合、食べた全員が食中毒で最悪全滅するかもしれないわけなんですよ。それを防ぐために好き嫌いというのは人間に備わった種の保存のための防衛機能という学説があるんですよ」
「あーなるほどね。またひとつ賢くなりましたわ」
臼井さんは喜んでいる様子だが、久留巣さんは反応に困っている。
遅れて今の話にコメントをしてくれたと思ったら、
「加藤さんって変わった人ですね」
ジーザス・クライスト! と心の中で叫んだ。
時間になり久留巣さんは帰っていった
それからの仕事の時間は一人で反省会を脳内で行っていた。
なんと答えたら良かったのか。返しやすい会話とはなんぞやといった内容が頭の中に溢れ出す。映画でも漫画でも小説でもこんな会話があるはずだ。映画や小説はリアルさを追求しているはずだ。それならなぜそれらを参考にして現実では上手くいかない。現実とフィクションは一方通行なのか。フィクションから現実は通じないのだろうか。
今までも「変わった人」と言われたことが何度もあった。私は自分の言ったことが常軌を逸していたとは思っていない。そう思う一方、知識を開陳して偉そうに話していた衒学的な、もとい、ペダンチック・ファッキン・ガイだったという反省も頭に浮かぶ。次に考えたことは、なぜ男性の臼井さんは私の話を楽しむことができて、なぜ多くの女性は私の話に沈黙するのだろうか。なぜ相手は私という存在を持て余すのだろうか。なぜ「格好いい」と言われつつも(お世辞だってことくらい知っているが)付き合える女性が一人もいないというのだろうか。なぜ私は誰かがいると、自分を持て余すのだろうか。
さっきも「○○という学説があるんですよ」に対して「賞味期限のない食べ物なら嫌いな人はいないのではないか」とか返しようがあるではないか。
これは私の失敗なのだろうか。それとも彼女の失敗なのだろうか。この気持を表現する言葉はなんだろうか。
「オー、カモン」
最後には適当な英語を呟いて自分自身をごまかす。
「たぶん加藤さんに慣れるの時間かかると思いますよ」
清掃を終わらせてキッチンで臼井さんにさっきのやり取りを聞いてみた。
「臼井さんはなんであんなに自然に振る舞えるんですか」
「俺も女の人と話すの得意って言うわけじゃないんですよ。ありきたりな会話しかできないですからね」
私もありきたりな話をしたつもりだった。人々がこの間観た映画とか読んだ本の話をするように、読んだ本に書いてあったことを言っただけだったのだ。
「あの映画どうだった? 面白かった?」
「うん、すごく感動したよ」
「じゃあ観てみようかな」
に対して少し具体例を入れたのが私の発言なのだ。
「あの本にはこういう事が書いてありました」
「めっちゃ面白そうですね、今度読んでみます」
とこうなるのではないかというのが私の考えだった。
臼井さんはそんな私の思考を読んだのか続けた。
「加藤さんの会話は思いがけない球を投げられる感じで、取りづらいんですよ。悪いとかという意味ではなく」
「けれども私がさっきの臼井さんの会話の内容を同じように喋ったとしてもきっと上手くいかないと思うんですよ」
「話す時の間とか、雰囲気っていうか」
「抑揚とかですか」
「そうそう、加藤さんは話すとき冷静な感じなんですよ」
「なるほど、少し見えてきました」
「でも、加藤さんは今のままでいいですよ。もし誰かのマネしたら演じてるって伝わってしまいますから」
物語の人物は真直ぐなのだ。純粋なのだ。普通の人間は邪なのだ。作られた人間にはかなわないし、打算や煩悩、雑念が入る。だから人は不純物のない物語の登場人物を好きになるのだ。人は純粋さを好むものだ。みんなそのことを本能で知っていて、時として純粋さを演じるのだ。ときにその演劇に共演してみたり、批判したり、あえて無視をする。本能で知っているゆえに、他人の演技にすぐ気づくのだ。
「お客さん少ないですね」
「楽でいいですけどね」
「でも退屈過ぎませんか」
「ちょっと」
臼井さんの手回しによって夕方勤務の人とシフトを変わってもらった。昼はランチ時を過ぎれば客足は遠のき、比較的楽な時間が流れる。
昼間に入るのには理由がある。人間には何度も顔を合わせるだけで相手のことが好きになる、こともあると教えてもらった。嫌われていなければの話だが。
「加藤さんって漫画家を目指してるんですよね。オススメの漫画ってありますか」
素人にこういうことを聞かれると、いつも面倒臭いなと思ってしまう。だが久留巣さんを前にするとそんなことを思う余地さえなくなり平静ではいられなくなる。とはいえ私もまだ素人なのだが。
「そうですね、手塚治虫とか面白いですよ」
「そうなんですね~」
沈黙。
無難中の無難な回答。そして正直。二つの条件を見事に合わせた返答。更に漫画家を目指していることも含めると、完全解となるが、結果は予想の真逆だった。
「えっと、久留巣さんはどんな漫画を読まれるんですか」
「私は比較的最近の作品が好きです」
聞き覚えのある少年漫画や少女漫画が上がった。残念ながら今度はこちらがついていけなかった。
「今度読んでみようと思います」
教えてもらったタイトルをメモする。ついに会話が途絶えて彼女は携帯を触り始める。手持ち無沙汰となり、珍しく仕事を始めた。とはいえ、客がそこまで多くなく仕事がすぐに片付いていしまう。キッチンに戻るのにためらいを覚えて教えてもらった漫画を読んでみることにした。
意外と面白い。悔しいけど面白い。流石は久留巣さんオススメの漫画だと思った。この話題を持ってキッチンに戻り今読んできたと話しかける。
せっかくシフトの時間を変わってもらったのに、近くづくチャンスなのに、と焦れば焦るほど、会話はちぐはぐになっていく。臼井さんの助言どおりにいつもどおり振る舞っているのが裏目に出ている気がしている。果たして私の人生何度目の失敗なのだろうか。
ようやくわかったことがある。経験は自然に糧とはならない。ふぐも毒を除かなければ食せない。糧としたかったら調理しなければならない。かつて同様に女性と会話を試みてグダグダになったとき、私は調理法を学ばなかったのだ。
「お疲れ様です」
夜勤の時間となり臼井さんが現れた。地獄に仏と思ってしまい、久留巣さんに心の中で謝った。天国だと思っていました。
ブースの清掃から戻ってみると、臼井さんと久留巣さんは仲良くおしゃべりをしていた。彼女の声のトーンが高いように思うし表情も豊かだった。
自分では彼女を楽しませることができないという虚しさだろうか。それとも二人の会話に入れない疎外感だろうか。それを目の前で自覚させられることは辛かった。たびたび傍観者として存在しているだけのことに遭遇する。いてもいなくてもいいならいないほうがいいという状態だ。彼らからすると、自分たちの会話を隣でずっと聞いているだけで気分が良くなることはないという存在。
「どうでした加藤さん。楽しめましたか」
久留巣さんは帰っていき、私は夜勤に継続して入った。
「緊張して上手く話せないですね」
「最初はそんなものですよ。相手も緊張してますから」
「臼井さんとは普通に話してましたよ」
「関係ない人とは話しやすいんですよ。意識している人の前だとそうなりますよ」
「そういうものですか」
「そうですよ。加藤さんがブサイクだったら普通に話すことになってて、脈なしですよ」
近頃漫画を描いていなかった。しかし、読んでいた。ただ娯楽として読んでいるものを自分には勉強だと言い聞かせている。頭の中で話がまとまっていないのだ。これでは描き始めてもうまくいくまい。練り直しが必要だ。そんな生活を続けて三年が経っていた。これではダメだと、年が変わるごとに新しい紙を前に新しい話を考えて、新しいキャラクターを描いてみるのだが、この季節になると、日々の生活が忙しいを言い訳にして必死に家事をこなしたり、健康問題を気にしてランニングに出かけるようになる。
なぜ怠惰は習慣となるのに、前向きな活動は習慣とならないのか。
そのことの説明ができたとしてなんだというのか。今苦しんでいる状況を専門用語で説明されたらなんだというのか。自分の怠惰さに名前がついているとして、それが何だというのだ! 名前などなくとも説明されずとも負の循環から抜け出すことが目的なのだ。
どうしてそれが、私には、できないのだ!
(続)
※『玉しゃぶりやがれ(3)』はこちら