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良寛の俳句

2020.08.14 07:02

https://blog.goo.ne.jp/seisei14/e/54a718e655481369daf4bed46c0540fc 【良寛の俳句】より

良寛の句(その一)

雪しろのかかる芝生のつくづくし      良寛

 斑雪(はだれ)の山を仰ぎつつ行く    晴生

忘れ雪幼なじみが手を上げて        晴

 還暦過ぎしだびら雪の夜         晴

 ソネット(十四行詩)の行数の、四・四・三・三の四連に分けてのソネット俳諧(連句)というものも創案されている。上記のものは、そのソネット俳諧(十四句、一花一月)のスタイルを借用して、全ての句に「雪」を詠もうとする企ての、四・四・三・三の冒頭の一連(四句)のものである。そして、その冒頭の発句に、「雪しろのかかる芝生のつくづくし」という良寛の句を持ってきた、いわゆる、「脇越し」のスタイルものである。良寛の俳句は全部で百七句あるとのことである(谷川敏朗著『良寛全句集』)。良寛(一七五八~一八三一)の、その漢詩と和歌(長歌・短歌など)については、「日本の漢詩人の中では、最高の位置にあり」・「万葉歌人の柿本人麻呂に匹敵する」(谷川・前掲書)といわれるほど、夙によく知られているところであるが、それに比すると、良寛の俳句というのは、良寛自身、ほんの座興のような、手すさびのようなものと、そんな位置づけをしていたことであろう。しかし、良寛の父・以南は「北越蕉風の頭領」・「出雲俳諧中興の祖」といわれるほど、こと俳諧の一方の雄であり、また、「良寛・由之兄弟歌巻」に見られるごとく、良寛一族がそれらに造詣が深かったことも容易に察知されるところのものである。さて、掲出の「雪しろのかかる芝生のつくづくし」の句について、「雪しろ」は「雪解けの水」、「つくづくし」は「土筆」の、いずれも春の季語で、いわゆる「季重なり」の句ということになる。 しかし、良寛は「季重なり」などということには一切お構いなして゛、「見たままま、感じたまま」を、実に的確に表現していることか。良寛の漢詩の作法の心得として「写心中物」という良寛自身の言葉があるが、この掲出の句についても、この「心の中の物を写す」という、それが、作句・作歌・作詩の源泉であるということが、一目瞭然に察知されるのである。この句形に似たものとして、「雪しろの寄する古野のつくづくし」(「良寛・由之兄弟歌巻」)というものがあるが、それは文政十二年(一八二九)の、良寛の七十二歳のときのものとされている。この二つの句が、それぞれに独立した句なのか、それとも、一句に推敲を施した校異句なのかは定かではないが、いずれにしても、当時の越後の早春を告げる句として、また、良寛の作句の特徴を如何なく発揮していると句として、忘れ得ざる一句といえるであろう。

良寛の句(その二)

われ喚(よび)て故郷へ行(ゆく)や夜の雁(かり)

 良寛の百七句ある俳句の中で筆頭にあげられる句ではなかろうか。句意は「生まれ故郷の出雲崎を遠く離れて、仏道の修業にいそしんでいる自分であるが、そうしたわたしを連れて、故郷へ行こうというかのように、雁が夜鳴いて空を渡ることだ」(谷川・前掲書)。良寛の年譜によれば、「安永八年(一七七九)・二十二歳、五月ころ国仙和尚に従い得度。備中玉島円通寺におもむく。天明三年(一七八三)・二十六歳、母ひで死亡。寛政二年(一七九〇)・三十三歳、国仙和尚、良寛に印可の偈を与える。寛政三年(一七九一)・三十四歳、国仙和尚死亡。良寛土佐に滞在か。寛政四年(一七九二)・三十五歳、四国行脚か。寛政七年(一七九五)・三十八歳、父以南、京都桂川に投身自殺。寛政八年(一七九六)・三十九歳、このころ帰国。郷本の空庵に住むか。寛政九年(一七九七)・四十歳、国上の五合庵に住む」(谷川・前掲書)とある。良寛帰郷の大きな起因となっている、寛政七年七月二十五日の、父以南(享年・六十歳)の京都桂川での投身自殺が見え隠れする句である。また、天明三年四月二十九日の、母ひで(享年・四十九歳)の面影もあることであろう。そして、芭蕉の「病雁の夜寒に落て旅寝かな」も意識のどこかにあることであろう。良寛はこよなく芭蕉を愛した。芭蕉を称える良寛の漢詩がある。

  是翁以前無此翁  是ノ翁以前此ノ翁無ク

  是翁以後無此翁  是ノ翁以後此ノ翁無シ

  芭蕉翁兮芭蕉翁  芭蕉翁 芭蕉翁

  使人千古仰此翁  人ヲシテ千古此ノ翁ヲ仰ガシム

良寛の句(その三)

蘇迷廬(そめいろ)の訪れ告げよ夜の雁

 この良寛の夜の雁の句も、前句(その二)と同じころの作であろう。この句には、「山里に修行しける折、夜のいと心憂きに雁の鳴(なき)ければ」という前書きのある「そめいろの音信(おとづれ)告げよ夜の雁」という句形のものもあるという。また、この「夜の雁」が「夜の庭」とのものもあるようである(谷川・前掲書)。良寛の父・以南の京都の桂川での投身自殺は、寛政七年(一七九五)のことであったが、その四十九日の法要には、良寛の出家ため家督を継いだ、良寛の弟の由之夫妻らが京都に出向いて行われたという。このときには、良寛は、四国行脚などの修行の最中であり、父・以南の死については、それらの法要などが済んだ後に知るのであろう。しかし、その翌年には、良寛は帰郷しており、その帰郷時(寛政八年)のころの作であろうか。句意は「帝釈天のおられるという蘇迷廬に、わたしの父上はおられるはずだが、夜鳴いて空を渡る雁よ。お前が常世(とこよ)の国の使いだというならば、どうか父上のありさまを知らせてくれ」(谷川・前掲書)。この句の背景には、父・以南の辞世の歌とされている「そめいろの山をしるしにたておけばわがなきあとはいづらむかしぞ」を意識してのものであろう。そして、良寛は、俳人である父・以南を偲びつつ、自分の得意とする和歌ではなく俳句をもって応えたのであろう。この句は、前書きのある「そめいろの音信告げよ夜の雁」の句形で、享和元年(一八〇一)に上梓された以南追悼集『天真仏』に収載されているという(谷川・前掲書)。

良寛の句(その四)

  市中へ蝶とび込む(ん)で狂ひけり    以南

  いざや子等こらが手をとるつばなかな   々

  庭はけば涼しき土の匂ひかな       々

  蓮の香やかとり扇の夕しめり       々

  あげ巻の昔をしのぶすみれ草       々

  我やどの羽音まで聞く千鳥かな      々

 これらの句は、著によって良寛の句とされているが、全て、良寛の父の以南の句とのことである(谷川・前掲書)。良寛の遺墨の「以南が句」として二十一句を良寛は記録に残しているようであるが、良寛の本技は漢詩や和歌であって、その俳句はそれを本技とした父・以南を超えることができないということを、良寛自身が一番よく知っていたことであろう。以南の没後に知友によって、京都で法要が営まれ、『天真佛』という追悼集が編まれたが、その句数は、五百句に近く全国の多くの俳人が句を寄せたという(唐木順三著・『良寛』)。そして、以南について、「かくて北越蕉風中興の棟梁といふならむか。さあれど其性名利をもとめず、竹の破笠、孤村の雨心、風塵をさけてひとり豊に浄し、年六十秋路過て、かりそめに天のはし立見むと人に告げつつ詠歌一首吟じ、たな引雲のやすらひに姿は見えずなりにけり」と記載されているほどの、一方の雄であったのであろう。さらに、この父・以南の自殺説の他に、高野山へ身を隠したという説もあり(唐木・前掲書)、どうも、その最期は謎につつまれているのである。あまつさえ、この京都の四十九日の法要のときには、良寛も旅先から馳せ参じているとの記述も見られ(唐木・前掲書)、前回の良寛はそのときは行脚の最中であったろうということは、必ずしも断定できるものでもないようなのである。とにもかくにも、良寛の俳句というのは、その父・以南を抜きにしては語れないし、良寛自身、父・以南の俳諧の記録を終生肌身離さず持ち続け、その影響にあったということだけは想像に難くない。そして、父を思い出すたびに、その父・以南の句をあれこれと推敲を施して、今に、それが遺墨として伝わっているということではなかろうか。良寛の句を鑑賞するときには、常に、このことを念頭におく必要があるように思われる。

良寛の句(その五)

裏を見せ表を見せて散る紅葉  (良寛愛唱の句)

 この句ほど良寛の俳句として知られているものはない。平明で畏まらず、それでいて、何かを暗示しているような、俳句というよりも、良寛の「愛語」や「戒語」に通ずるような響きを有している。良寛の「奇話」の例として、「良寛とただ会っているだけで、心がなごみ、豊かになり、清められるような気がし、良寛が去った後でも、その残り香が家の中に残っているような、いそぐでもなく、のろのろでもなく、変幻自在に似て任運自在の、『優游』たる良寛」(『良寛禅師奇話』)というようなことが、この句に接していると思われてくるのである。しかし、この句は、良寛の作ではなく、死期の近くなった良寛が貞心尼の前で、つぶやいたとされている句で、そのことが、貞心尼の『はちすの露』に記録されているのである。良寛の死は天保二年(一八三一)正月六日のことであるが、付き添っていた貞心尼に、「こは御みずからのにはあらねど、時にとりあひのたまふいといとたふとし」として、この句を貞心尼に述べられたものというのである(谷川・前掲書)。それは、「良寛は貞心尼に、自分の裏も表も、すべて言いまた見せてきたので、今は思い残すことはない」と、良寛の「悟り切った心境が示されている」(谷川・前掲書)というのである。たしかに、そういうことを、この句から詠み取ることも可能であろうが、それよりも何よりも、「人の一生というものは、この紅葉のように、時には陽のあたる表を見せ、時には、陽の影の裏を見せながら、ひらひらと散っていくようなものだ」と・・・、何の衒いもなく、この十七音字の響きのままに、この句を鑑賞すべきなのではなかろうか。そして、この句に接していると、良寛の次の漢詩などが思い起こされてくるのである。

 我生何處来   我ガ生何處ヨリ来ル

 去而何處之   去リテ何處ニカ之(ユ)ク

 (五行略)

 展転総是空   展転、総(スベテ)是レ空

 空中且有我   空中、且(シバラク)我レ有リ

 況有是與非   況(ココ)ニ是ト非ト有ランヤ

 不如容些子   如カズ些子(サシ)ヲ容(イ)レテ

 随縁且従容   縁ニ随ツテ且(シバラク)従容(シヨウヨウ

            センニハ)

良寛の句(その六)

日々日々に時雨の降(ふれ)ば人老(おい)ぬ

 この句の「日々日々に」は「ひびひびに」の詠みであろうか。この「日々日々」の用例は、良寛の漢詩ではよく見かけるものの一つである。この掲出句の「人老ぬ」というのは、おそらく良寛の自画像であろうから、文政十一年(一八二八)十一月の三条大地震の頃の作であろうか。とすれば、良寛、七十一歳のときで、国上山の五合庵から島崎の木村家の一隅に移住した年(文政十年)の翌年のころのものであろう。

  地震後詩(地震後の詩)

 日々日々又日々   日々(ニチニチ)日々日々又日々

 日々夜々寒裂肌   日々夜々(ヤヤ)寒サ肌ヲ裂サク)

 (二十一行略)

 また子らとの手鞠りの日々の次のようなものもある。

 日々日々又日々   日々(ニチニチ)日々日々又日々

 間伴児童送此身   間ニ児童ヲ伴ツテ此ノ身ヲ送ル

 袖裏鞠子両三個   袖裏(シユリ)ノ鞠子(キウス)両三個

 無能飽酔太平春   無能飽酔(ハウスイ)ス太平ノ春

 上記の漢詩の「日々」の詠みは、「ニチニチ」が普通の詠みである(東郷豊治編著『良寛詩集』)。そして、和歌になると、次のように、「日(ひ)に日に」とのものがある。

 秋の雨日に日に降れば唐衣濡れこそまされ干るとはなしに

 良寛のその生涯を紐解くに、この「日々」というのも一つのキィワードといっても差し支えなかろう。そして、最晩年のころの掲出の「人老ぬ」の句は、この「日々」と芭蕉の象徴のような「時雨」と組み合わさって、何故か良寛の最晩年の日々とその老愁のようなものが伝わってくるのである。そう解してくると、この掲出句の「日々日々に」の詠みも、「ニチニチ ニチニチに」と字余りの漢詩の詠みもあるように思えてくるのである。

良寛の句(その七)

倒るれば倒るるままの庭の草

 この良寛の句も、良寛の最晩年の句であろう。遺墨から良寛が亡くなる半年前の文政十三年(一八三〇)七月二十六日ころと推定しているものもある(谷川・前掲書)。この文政十三年は十月に改元されて天保時代の幕開けの年である。良寛はこの年の七月から病に臥して、十月の一時の小康状態を経て、十二月に危篤状態になり、翌天保二年の正月六日の申の刻(現在の午後四時ころ)に亡くなる。良寛を陰ながら支えた島崎の木村家の離れ家にいて、さらに貞心尼の献身的な心づくしもなされていたころであるが、この掲出句はそれらの中にあって、死を目前としての病の日々の良寛の「日々日々」の感慨ともいえるものであろう。そのころの「長歌」に次のようなものがある。

  この夜らの いつか明けなむ

  この夜らの 明けはなれなば

  をみな来て 尿(ばり)を洗はむ

  こひまろび 明かしかねけり

  ながきこの世を

 日中は、掲出句の「倒るれば倒るるままに草の花」を眺めつつ、その夜には良寛は身動き一つできず、夜の明けるのをじっと待ち続けているのである。掲出句に最晩年の良寛の像が見えてくる。 

 言(こと)にいでていへばやすけしくだり腹(ばら)まことその 身はいや堪へがたし

 良寛の病は「くだり腹」、直腸がんのような症状であったのであろう。

良寛の句(その八)

散る桜残る桜も散る桜

 『大愚良寛』の著書のある相馬御風が、この句について、「良寛禅師重病之際、何か御心残りは無之哉と人問ひしに、死にたうなしと答ふ。又辞世はと人問ひしに、散(る)桜残る桜もちる桜」と記したものがあるという(谷川・前掲書)。この相馬御風の記録が正しいとすれば、この掲出句は良寛の辞世の句ということになるが、貞心尼らの良寛の最期を看取った人らには、この句の記録はないということである(谷川・前掲書)。あまつさえ、前に触れた良寛の作ではない「裏を見せ表を見せて散る紅葉」なども、良寛の辞世の句として、良寛関連のホームページなどに紹介されており、この句についても、相馬御風の記録をそのまま信頼して、良寛辞世の句としたり、さらには、そもそも、この掲出句が良寛の自作なのかどうかも、にわかに即断はできかねるような句でもある(良寛の自作と存疑の句について検証した「谷川・前掲書」では、この句を良寛作としており、一応、良寛作としておきたい)。当時の俳諧というのは、「本歌・本句・本説取り」という手法が一般に行われていて、現在の「類似・類想句」拒否という風潮とは異質の世界にあって、まして、良寛の俳句は、手すさびの余技の即興的なものという感じのものが多く、そういうことに余り拘泥しないで鑑賞することが望ましいのかも知れない。次の良寛の蛙の句などの見ると、つくづく、それを作句している良寛の姿が見えてくるのである。

  新池や蛙とびこむ音もなし   良寛

  古池や蛙とびこむ水の音    芭蕉

良寛の句(その九)

○ 焚(たく) ほどは夜の間に溜る落葉哉    巴人

○ 焚くほどは風がもて来る落ち葉かな    良寛

○ 焚くほどは風がくれたるおおち葉かな   一茶

 上記の掲出句の巴人(一六七六~一七四二) は蕪村の俳諧の師匠の夜半亭一世となる早野巴人の句で、蕪村の兄弟子にもあたる結城の俳人・砂岡雁宕(がんとう)らが、巴人の十三回忌に編纂した『夜半亭発句帖』の中に収載されている句である。次の句が良寛(一七五八~一八三一)作とされているもので、この句に関連しては、良寛を長岡藩主牧野忠精が城下に招聘しょうと国上山の五合庵ではなく乙子神社草庵まで行かれたとき(文政二年・一八一九)に、良寛が無言のままこの句を呈したという逸話が残っているものである。そして最後が小林一茶(一七六三~一八二七)の句で、その『七番日記』に集録されている句である。この一茶の句は岩波文庫の『七番日記(下)』(丸山一彦校注) によると文化十二年(一八一五)十月の句で、時に、良寛が五十八歳で、国上山の五合庵から乙子神社草庵に移住した頃の作である。越後の良寛と信州の一茶とは、年齢的には五歳前後良寛が年上であるが、全く同時代の、しかも、越後と信州と日本海側の同一雪国の人ということで、奇しくも、今に燦然とその名をとどめている二人である。この二人が交友があったものかどうか、それらしき記録はないが、良寛の父・以南は「北越蕉風中興の棟梁」とも称せられた俳人であり、面識はなかったとしても、相互に、その名を承知していたのではないかということは察せられるところである。これらの三者の三作について、偶然の一致説と、意識しての剽窃説との二説もあるようだが、これまた、余りそういうことに拘らないで、当時、口承されていたものを、それぞれがそれぞれに記録にとどめて、それが今に語り継がれているということではなかろうか。そして、夜半亭二世となる与謝蕪村にも「西吹ケば東にたまる落ち葉哉」(『落日庵句集』)というものもあり、当時の句作りの一端を垣間見るような思いがするのである。

良寛の句(その十)

君来(き)ませいが栗(ぐり)落(おちし)道よけて

 この句は良寛が記した父・以南の句中に見られるもので、以南の作かの記載や、さらに、別本に「きませきみいが栗落ちしみちよけて」の句形のものもあるとの記載が見られる(谷川・前掲書)。それとは別に、交友のあった山の庵を訪れた渡部の庄屋・阿部定珍(さだよし)に与えたとされる「月よみの光を待ちて帰りませ山路は栗の毬(いが)の落つれば」という歌もある。これらのことからすると、掲出の句は、父・以南の作で、「きませきみいが栗落ちし道よけて」の改案のものが良寛のものなのかも知れない。しかし、これらの句や歌などに接すると、良寛の最晩年の貞心尼との和歌を通しての交遊というのが偲ばれてならないのである。

   いざかへりなむとて

 たちかへりまたもとひこむたまぼこのみちのしばくさたどりたど りに  貞

   御かへし

 またも来(こ)よしばのいほりをいとはずばすすき尾花の露をわ けわけ 師(良寛)

   ほどへてみせうそこ給はりけるなかに

 君やわする道やかくるるこのごろは待てど暮らせどおとづれのな き   良寛

 そして、良寛の絶唱ともいうべき次の一首が良寛の最晩年の華やぎとなって結晶するのである。

 秋萩の花咲くころは来て見ませ命またくば共にかざさむ  良寛

 秋萩の咲くころ是非「来て見ませ」、わたしがそのときに永らえていたならば、秋萩を「共にかざさむ」。

 いついつと待ちにし人は来(きた)りけりいまは相見て何かおも はむ 良寛

 いつ来るか、いつ来るかと待っていた人は「来(きた)りけり」。今は「相見て」、何も思いのこすことはない。

良寛の一生というのは、想像を絶するほどの「愚の如く、痴の如く、心身総脱落」の沙門・良寛の修行一筋のものであった。しかし、その死期にあって、かくも「待ちにし人は来(きた)りけり」と、「いまは相見て何かおもはむ」と、華やぎにも似た安心立命の境地に至ってことに万感の思いがするのである。良寛に次のような漢詩があるが、この漢詩の「詩」は、即、「歌」あるいは「句」と差し替えて何ら差し支えるものではなかろう。

  誰我詩謂詩    誰レカ我ガ詩ヲ詩ト謂ウ

  我詩是非詩    我ガ詩ハ是レ詩ニ非ズ

  知我詩非詩    我ガ詩ノ詩ニ非ラザルヲ知リテ

  始可與言詩、   始メテ與(トモ)ニ詩ヲ言フベシ