良寛の求道|僧でなく、俗でもなく慈愛に生きる
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【良寛の求道|僧でなく、俗でもなく慈愛に生きる】 より
円通寺を後に、杖と、一衣と一鉢だけで諸国をさまよう良寛の姿は、まさに「大愚」と呼ぶにふさわしい。野宿をし、人家の軒先で雨をしのぐという流浪のうちに、良寛は自然と向き合い、詩を詠み和歌を詠い、そして粗末な紙に書をしたためた。それは、孤独な貧しい生活に耐える修行であった。その漂泊の旅で、良寛がひたすら求めたものは、理屈ではなく無心の実践という境地だ。
その足取りは不明な点が多く、残された和歌や自筆の『関西紀行』の一部から推察するしかない。玉島を後に、赤穂、姫路、高砂、明石と山陽道を東へと辿って、須磨寺に至った。ちょうど梅の季節で、その時のようすを「梅の香りが墨色の衣に移るほど匂ってくる…」と、関西紀行の一節である「須磨紀行」に記している。
須磨から海辺に沿って、神戸、そして三輪(三田)、箕面の勝尾寺と迂回し、丹波路を京都へと向かい、京都から南に向きを変えて大坂へ。さらに足を延ばして奈良の吉野、紀州の高野山へと赴いた。
「吉野紀行」には、「里へ下り、粗末な家の軒下に立ち一夜の宿を乞う。夜具さえないので寝られずにいると、宵の間は老人が松の火を灯し、小さな籠を編んでいる。何かと尋ねると、吉野の里の花筐という。吉野蔵王権現の散りゆく桜を惜しんで、拾って花籠に盛るらしい。しみじみとした心打つ話なので、旅の土産にしよう」と記している。
そこから、険路の熊野本宮、新宮へと旅をつづけ、やがて鈴鹿の険しい峰々を越えて、大津に出て、琵琶湖に沿って、彦根、長浜へと北上する。こうした行脚を通じて良寛は、宗派を越えて先々に訪ねた寺院の高僧の説法に無心に耳を傾け、ある時は西行や芭蕉など尊敬する先人たちの足跡を辿って、自ら求める生き方の手がかりを一つ一つ見出そうとした。物事にこだわらず、自然にまかせるという境地にいたる求道であった。
そうして5年の流浪の後に、良寛は帰郷を決意する。北国街道を辿ってようやく越後に帰郷した良寛だったが、実家は没落、父母もすでになく、出雲崎を通り越して寺泊の海岸の塩炊き小屋を仮寓とする。やがて、国上山山腹の国上寺の五合庵で暮らす。その後、近隣の庵を転々とするが、48歳で再び五合庵を居に定めた。冬には深い雪で埋もれるこの質素な庵で、独りで12年を過ごした。
山を下りて時に托鉢に出かけ、歌を詠み書に親しみ、子どもらと遊んだ。世の中の名利とは一切無縁で無欲と無心に生き、そして誰からも慕われながら良寛は74年の生涯を終えた。残された慈愛に満ちた多くの漢詩、和歌、俳句の書は今日も人々を魅了し心を打ちつづける。それは、今日、失われつつある何か大切なものかもしれない。