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「自灯明・法灯明」で生きていく

2020.08.02 14:03

https://morimariko.hatenablog.jp/entry/2015/06/10/%E3%80%8C%E8%87%AA%E7%81%AF%E6%98%8E%E3%83%BB%E6%B3%95%E7%81%AF%E6%98%8E%E3%80%8D%E3%81%A7%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%8F%E3%80%82【「自灯明・法灯明」で生きていく】 より

「自灯明・法灯明(じとうみょう・ほうとうみょう)」という、仏教に出てくる言葉があります。

これは、お釈迦様がこの世を去る時に、弟子のアーナンダさんに言った言葉だと言われています。

アーナンダさんは、お釈迦様がこの世からいなくなったら、悩んだとき、困ったことが起きたとき、自分には、相談する相手がいなくなってしまうという不安を、お釈迦様に打ち明けたそうです。

そこで、お釈迦様は、「自灯明・法灯明」の教えを告げたのでした。

「自灯明・法灯明」を、『広辞苑』で調べると、「よく整えられた自らを拠りどころとし、正しい教えを拠りどころとすること。」とありました。

「法灯明」にあたる「正しい教えを拠りどころとすること」とは、仏教だけあって、「仏教の教えを拠りどころとすること」、ということだと思いますが、私は、「仏教の教え」に限定した解釈はしていません。

私は仏教好きですが、他の宗教にも、また、誰かが言った一言にも救われたことがあります。ですから、私にとって、本当に救いになる言葉や教えは「すべて、よりどころ」であり、「正しい教え」です。

そして、「自灯明」にあたる「よく整えられた自らを拠りどころとすること」は「他の誰でもない、秩序だった自分自身を頼りにすること」、ということだと私は思っています。

私は、自分の生き方の根本に、この「自灯明」を据え置きたいと、日頃から思っています。

例えば、「信じてもおかしくない相手を信じてあてにしたけれども、あてが外れて、問題は解決しなかった。

しかし、それでも、その人を批判しようとは思わない。

それで、これからどうするかは、また自分で考えてみる」というのが、「自灯明」の教えに則った生き方だと私は思っています。

因みに、「楽をしよう」と、ずるいことを考えて人をあてにしたならば、その人を批判するなんてもってのほかですし、あてが外れて、ずるいことが成立しなかったなら、それでよかっただろう、と私は思います。

「自灯明」で生きていこうとすれば、自分に強い責任感が生まれてくると思いますが、

誰かをあてにしないで生きていけるなら、かえって楽かもしれません。

しかし、人は、一人では生きていけないですよね。

人は、期待も依存もしないで、また、人と助け合わずに生きてはいけない生き物ですよね。

もし、何か問題が浮上したときに、「わざわざ自分が大変な思いをして、解決しようとしなくてもいいだろう。

そのうち、誰かが何とかするだろう」とか、「問題が解決しなくても、自分が困るわけではない」とか、そういう考え方は、人が、一人では生きていけないことを知っている人には、私は思ってほしくないです。

この、「人は、一人では生きていけないことを知っていて、世の中の出来事が他人事ではなくて、何とかできないかと思案して、誰かと協力しながら、ときには一人でもあっても、挑戦してみる」という自分が、「自灯明」が言うところの、「よく整えられた自分」なのではないか、と私は思います。

そういう自分になって、そういう自分を頼りにして……「自灯明」で生きていこうとするとき、救いになる言葉や教え「法灯明」が自分を支えてくれるだろうと思います。

また、「自灯明・法灯明」は「自燈明・法燈明」と書き表されていることもよくありますので、念のため申し添えます。