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小國裕美 オフィスイマジン office imagine

「カルメン」ビゼー没後150年 パリ ビゼーの住んでいたアパート 小國裕美

2025.02.14 05:28

   ジョルジュ・ビゼー(1838年–75)


            配偶者: ストロース夫人 (1869年 - 75) ビゼーの死後、弁護士エミール・ストロースと再婚


フランスの友人から、あのカルメンで有名なビゼーが住んでいたというアパートの写真をいただき、とても興味深く、調べてここに記録しました。


ビゼーは、入学年齢に満たない9歳でパリ音楽院に入り、母親仕込みのピアノの腕をリストやベルリオーズに称賛されるなど、幼少期から音楽的に磨かれていた。

父は理髪師から作曲家に、叔父は歌手、叔母は音楽院でソルフェージュを教えていたし、作曲をフロメンタル・アレヴィー(オペラ『ユダヤの女』など、のちに娘・ジュヌヴィエーヴと結婚)に習った。

初めての交響曲は17歳で作曲、18歳でオッフェンバック主催のコンクールで大賞、19歳でローマ賞を得て奨学生としてローマに滞在、作曲をしながら、人生の春を謳歌した。



ビゼーの目標はオペラで名を成すことだった。

当時フランスでは歌劇での成功こそが作曲家の王道とされていたのだ。

1863年『真珠採り』、 66年『美しきパースの娘』などは上演されたが、ビゼーは納得しなかった。

オペラ・コミックから依頼された『カルメン』はドン・ホセを誘惑する自由で官能的な女性像などが、保守的なこの劇場の観衆にはスキャンダラスに映り、最終幕では拍手もなかったと言われる。


『カルメン』が書き上げられたブージヴァルの家。

失意のビゼーはブージヴァルの家に静養に赴き、『カルメン』初演3カ月後、この家で亡くなった。

セーヌ川で泳いだ数日後のことだった。


個人所有で文化遺産の日のみ見学可。

 5 rue Y.Tourguéniev 78380 Bougival

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ビゼーの足跡をたどってみると、パリ郊外のヴェジネやブージヴァルの「田舎の家」を除く殆どが、19世紀に芸術家やインテリが住んだパリ9区の「ヌーヴェル・アテネ」地区だ。

ビゼーは、その9区の三ヶ所で暮らした。

住所はこちら

① Rue P.- Fontaine ②18 rue Victor Massé と引っ越し、結婚後ビゼー夫妻は ③22 rue de Douai(Duperré)に住む。

彼が学んだ音楽院も9区だった。

ビゼーは1870年の普仏戦争の時でさえ、サン・トゥアン=クリシー防塞でパリ防衛にあたりながら、休憩になると仲間を連れて帰宅していたという。

その家がデュペレ通り。

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( Duperré )の ビゼー夫妻、義父フロメンタル・アレヴィーらが住んだ館。ビゼーの妻ジュヌヴィエーヴはサロンを開き著名人を招いていた。 

今の内装は、第1次世界大戦後に娼館となった時代のもの。

今は、夜になると重厚な扉が開き、赤い灯りのなか、カクテルや自家製ジンで幻想にひたれるバーLe Carmenになっている。

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ペール・ラシェーズ墓地には、シャルル・ガルニエがデザインしたビゼーの墓碑がある。

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