竹林の社には風と水の神が似合う
Facebook・郷右近丸彦さん投稿記事《ほんたうの諏訪大社④》
諏訪大社独特の神器に「薙鎌(なぎかま)」というものがあります。
草を刈る鎌でもあるのですがその形状がユニークで鳥の頭のようにも見えます。
この薙鎌は七年に一回の御柱祭や年中行事で活躍する重要な役所を持った神器なのです。
三種の神器の一つに草薙の剣がありますがこちらは薙の鎌ということです。
御柱ではこの薙鎌を切り出す巨木に当代の諏訪大社宮司が切り込みを入れることで神木に変わるとされます。
神さまを移動させるための遷座の行事では薙鎌を先頭に立たせることで風を呼び邪を祓います。
つまり薙鎌は風の神を呼ぶものとしても捉えることができます。
今は鳥の頭のような形状になっていますがかつては蛇であったという文献もあります。
蛇は龍となり風を切って空を飛ぶことからこれもまた風につながると考えても善いかもしれません。
諏訪の神は建御名方神だけでなくさまざまな自然の中の精霊や神々と共に存在してきたと
捉えた方が自然なことに感じます。
ちなみに諏訪の神は「風」と「水」で「カミ」であるとするむきもあります。
タケミナカタの神をかつては「風」と「水」の神と信仰されていたという言い伝えがあります。
通常「カミ」と言えば「火」と「水」であるのですがあえて「風」と「水」とは大自然の強烈なエネルギーを祀ったからとも言えるかもしれません。
諏訪大社のほんたうの神はいったい誰なのか?建御名方神はファンタジーではなく実在した人物が神格化された存在だと私は判断しています。
とするならば元々は「風」と「水」を司る自然霊が祀られていてそれを古代の英雄であったタケミナカタ氏が受け継ぎ神となっていったと考えた方が辻褄が合うと考えます。
つまりほんたうの諏訪大社の神は?という謎の答えは縄文時代から続く大自然の中に見出すことができるはず、だと私は考えるのです。
続きはまた明日。今日も一日あなたとあなたの大切な人が「ほんたうの幸ひ」でありますように!
https://nakagawaayuki.com/?p=2993 【<火と水、左と右>】
「火」・・・炎は「縦」に舞い上がります。
「水」・・・水面は「横」に広がります。
「火」(か)と「水」(み)の「縦」と「横」が交わると神(かみ)になります。
十字の形となり、神道の一霊四魂やキリスト教の十字架の形にも象徴されています。
また「火」は(ひ)で左(ひだり)、「水」は(み)で右(みぎ)を表し、左が「陽」で右が「陰」になります。
働きとしては「左」から入って(捕まえて)、「右」から出し(離し)ます。
パワーストーンのブレスレットは、「左」につけると余計なものが入らないよう守護を高めてくれ、「右」につけると必要なものを放てます。
お料理では「火」と「水」を使うと神(かみ)の波動が入ります。
(やはり煮物は電子レンジより鍋でガスを使いたいですね)
私たち日本人は八百万の神さまを信仰していますので神さまは至るところにいらっしゃいます。
「神」とは様々な「働き」です。
神さまはお働きによってお名前が変わりますが「火」と「水」が元になっているのです。
そして私たちの中にも在るのです。
主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者になった。(創世記2:7)
https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/00902/contents/002.htm 【スピリットのルーツ“霊・息・風”】 より
「スピリトゥス」と「プネウマ」と「ルーアハ」に共通し一貫していることは何か。どれも「霊」とも「息」とも「風」とも訳せるという事実です。このうちどの訳語をとるかは翻訳者の解釈次第です。
たとえば旧約聖書の冒頭、創世記1章1節の書き出しはこうなっています。
初めに、神は天地を創造された。
地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、
神の霊が水の面を動いていた。
この最後の「神の霊が」という部分は「神の風が」とも「神の息が」とも訳せるわけです。
次に「人の創造」(創世記2章7節)の記述を見てみましょう。
主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。
人はこうして生きる者となった。
「命の息」となっている部分は「命の風」とも「命の霊」ともいいうるわけです。
「息を吹き込まれて生きるものとなった」という発想は日本語の世界にも通じるところがあります。
「いのち」という言葉ですが、「い」は息のことだそうです。息吹の「息」です。そして「ち」というのは霊力、いのちを支える不思議な霊力のことです。この霊力を感じるものに古代人は畏敬の念を抱いたのは当然でしょう。カミナリとは「神鳴り」のことですが、これを「いかづち」というときの「ち」、あるいは大蛇を「おろち」というときの「ち」もこの霊力と関係があるそうです。生命を支える血液は大和言葉では「ち」ですし、母親から赤ん坊へといのちを受け渡すのが「ちち」。乳飲み子の「ち」でもあります。
つまり「いのち」とは「息の霊」ということ。生命の霊力を息吹きとして吸って吐いている。その状態が「いのち」なのだというわけです。だからこそ「息している」ことが、「生きている」という「いきもの」の姿であるわけです。
ついでに「命」という漢字も見ておきましょう。この字は「生命」の命でもあるし、「命令」の命でもあります。生命と命令、いったいこの2つにはどんな共通点があるのでしょうか。
命の字の成り立ちを調べてみますと、もともとは2つの独立した漢字が合体してできたというのです。よく見ると、左下に「口」があります。それを除くと「令」という部分が残ります。そう、命令の令です。そもそも「命」と、は「口で発せられた命令」という意味なのです。では、誰が命令を下すのか、です。古来、東洋の考え方では「天」です。天が「生きよと命じる」、それが「生命」であり、これを「天命」と呼び習わしています。そして、われわれに生きよと命じた天が、「はい、ご苦労さん。もうこのへんでいいよ」というときまでがわれわれの寿命です。ですから「もういいよ」という命が下った日を「命日」として記憶するわけです。
この中国古来の考え方も、天を神と置き換えればそのまま聖書の世界に通じます。
ただ、聖書の違うところは、人格神の意志で自らの息を吹き込んだ結果なのだ、というところでしょう。中国の天にしても易占などで予測可能な法則性をもっており、人間と対話するような人格性はないようです。
聖書のいう人格的な神なんてたわいないイメージで、納得がいかない、という方があるかもしれません。現代科学ではいのちの誕生は偶然によるということになっているようですし、宇宙の力や自然の精密機械のような働きの結果だという説もあるでしょう。
ただ、ユダヤ教やキリスト教で人格神というのは、神に人間のような人格や意志があるかないかの問題ではなく、われわれ人間側として、神というのは機械や偶然のように、責任を問題にせず無機質に対応する相手ではなく、全人格的な、責任ある対応を迫られる相手だぞ、というこちら側の認識の前提なのです。
というわけで、もう一度、創世記2章の「人の創造」の場面に戻ってみましょう。
この箇所はなかなか味わいがあります。神の息、神の霊が吹き込まれて、初めて人は生きる者となった。つまり人が人間として生きているいちばん中心にいのちのスピリットがある。それを呼吸することで人は生かされている。人を活かすのは神のスピリットだ、というわけです。
ではこのスピリット、人間だけに与えられた特権なのでしょうか。人間が万物の「霊長」と呼ばれるのはこのスピリットのおかげなのでしょうか。答えは否、です。
旧約聖書のコヘレトの言葉3章18節にこうあります。
人の子らに関して、わたしはこうつぶやいた。
神が人間を試されるのは、人間に、自分も動物にすぎないということを見極めさせるためだ、と。
人間に臨むことは動物にも臨み、これも死に、あれも死ぬ。
同じ霊をもっているにすぎず人間は動物に何らまさるところはない。
・・・人間の霊は上に昇り、動物の霊は地の下に降ると誰が言えよう。
そうです。人間だけでなく動物もまたスピリットを内包して生きているというのです。「いきもの」同士ひとつながりであるわけです。ただ、聖書ではその息は神のスピリットであるとし、常に神と息を合わせ、呼吸をひとつにして生きることこそ本来のありようなのだという自覚が見てとれます。スピリット、それは私たちの存在を根底で支え続けていてくれるダイナミックないのちの源であり、それを失うと私たちはもはや生きていけないものなのです。