ことわざ×俳句・温故知新
http://blog.livedoor.jp/keizan_haiku/archives/6390893.html 【三つ子の魂】 より
佳山です。ことわざ×俳句(仮)先人の知恵をもとに俳句を考えるシリーズの第1回目
(三日坊主癖があるので、シリーズ化しても続かないかもしれませんが。笑)
今回は「三つ子の魂百まで」
意味は幼い頃の性格はなかなか変わらないというもの。
確かに、私の人見知りはいっこうに改善されないし、あらゆることに消極的なところも相変わらず。
的を射ているかもしれません。先人の知恵恐るべし。
ですが、俳句を始めて変われたこともあるんです。
それは、自信を持てるようになったことです。
以前ホームランを打てたことがないという葛藤に触れましたが(vol7参照) 、
それでも自分の句によくできたなって思えることがあって、それは私にとっては大革命。
授業中挙手したことはほとんどなし。作文を書いている間先生が近づいてくると隠しながら書く。そんな生徒でした。
挙手して答えて間違ってたら嫌だなと思っていたし、作文とか日記とかとにかく自分の書いたものを見られるのが恥ずかしくてたまりませんでした。
今では詠んだ句がかわいいし、組長はじめいろんな人に読んでもらいたい思いでいっぱいです。性格は生まれつきないし幼い頃の環境である程度決まるかもしれません。でも、ちょっとしたきっかけで変われるのかなとも思います。
そして、私が俳句を詠むうえで目指していることの一つ。それは、「三つ子の魂で詠む」
幼い頃の方が無邪気で自由な発想ができていたと思います。
歳を重ねるにつれて物を知り、いろんなルールに囚われてしまいアイデアの枠が自然と狭まってしまいがちです。
だからこそ、俳句を詠む時くらいは自由に幼心で世界と向き合う。
そんな気持ちで詠めたら楽しいだろうな。
句界の常識を覆す!
芭蕉と蕪村のルーツは諺にある
芭句と蕪句は、超短編ミステリー
芭句・蕪句をミステリー作品とみなすとき、「事件」の解決篇は合鍵語の意味づけ次第で異なる。著者が示す合鍵語も一つの正解の候補に過ぎない。つまり、誰もが自分の答えを正しいとすることができるし、また、違った答えが存在してもそれが何かを知らずに終わる。読む側が「自由鑑賞する」度合いのきわめて高い文学ジャンルが新登場していたのである。
http://www.caguya.com/kannagara/?cat=28&paged=2 【一つの生き方】 より
人は主体的な能動的であるとき、やる気が出てくるものです。しかし自分のやりたくないことや否定的なことをやらされると感じるとき、やる気は出てきません。これは感情がその人のやる気を調整しているからです。
しかしよく考えてみると、人生というものは生きていればやりたくないこともやりたいことも同じくらい出てきます。やりたいことだけをやっていたら、それと同じくらいやりたくないこともでてくるのです。
これを毎回、自分でやっていたら結局はやりたくないからやりたいこともしないという具合に消極的になることが多いように思います。
その中で、どんなこともやる気に満ちていて人生を楽しみ充実させている人がいます。日々に、一期一会だと真剣に向き合いどんなこともやる気がある人がいます。そういう人たちの共通する特徴は、やらされているという感じがないということです。
つまりどのようなことでも、「自分のやりたいこと」になっている人はやる気がつねに湧いてくるということでしょう。では、やりたくないことはどこにいったのかということです。この方々は、「やりたくないことも含めてやりたいことになっている」ということが前提にあるように思います。
物事の捉え方、物の観方が最初から異なるのです。
何のためにやるのか、なぜやるのか、それを突き詰めている人はどんなことも必然であり必要なことだというマインドセットを持っています。そして大きな意味で、それは自分の魂が望んでいることであるという自覚を持っています。
そういう人は、すべてやりたいことだったと自分の意識をすぐに切り替えることができる訓練を積んでいるのです。生きていれば、本能もあり感情もありますから心の声に従えといってもなかなか言うことを聴いてくれないのが人間です。
しかし何度も自分の初心や心の声に問いかけて、本当は自分はこれをやりたかったのではないかと自問自答する中で次第に磨かれていきマインドセットされていきます。それを修練を通して、気が付くとすべてやりたかったことに換わるマインドを身に着けるように思うのです。
人生は一度きり、日々は常に一期一会。感情に左右されても、目的は失わない。そういう生き方ができる人が、人生のプロセスを味わい、初心を忘れずに豊かで楽しい人生が送れるように思います。
現代は、忙しすぎてそんなマインドセットの修練をするよりもすぐに目先の結果ばかりを追いかけてしまいます。心豊かに生きられる人生は、成功も失敗もなく、そこに最高の人生があっただけです。
子どもたちのためにも、一つの生き方としてお手本を目指していきたいと思います。
フルネスと暮らし
昨日、ある場所で座禅をする機会がありました。座禅は、長崎の禅寺で社員で参加したことがありましたが改めて体験してみると別の角度からその座禅の効能を実感することができました。
現在は、日本よりも海外でZENといいその座禅の価値も広がっています。特に海外の名経営者や発明家、あらゆるジャンルの人たちもこの禅の効能を述べています。
ジェームス・スキナー
「再新再生(活性化)を図る最大の方法の一つは、毎日「瞑想と思索の時間」をとることである」
プラユキ・ナラテボー
「仏陀の「気づきの瞑想」は「マインドフルネス・トレーニング」と呼ばれ、精神医療の現場では有効なストレス軽減法として、またグーグルやインテルなど多くの企業では社員のメンタルヘルスと仕事のパフォーマンス向上を目的として、取り入れられてきている」
アンディープディコム
「このテクニック(瞑想)の素晴らしいところは、1日あたり10分程の時間で人生を変えられることです。ただコツを覚える必要があります。練習が必要で意識する方法を学ぶ為のフレームワークも必要です。これが瞑想というもので今この瞬間を理解するのに役立ちます。また今という瞬間から最良を得る為の アプローチ方法も学ぶ必要があります。瞑想はこの為にあるんです」
リチャード・デイビットソン
「人々が単に一日、心のトレーニングを行うことで遺伝子の活動というレベルにまで効果があった」
この瞑想のアプローチは、人の生き方の対話であり、人生を振り返り自分自身の存在、自然の一部である自分、真我に気づくことのように思います。
私は座右が一期一会ですが、この生き方もまた禅に通じています。よりよい人生を歩む人は、常に自分への問いかけを持つ時間を大切にします。自己の判断を歪めないように、自己の純粋な調和を保てるように、穏やかでゆったりとした場を心の中に澄ませます。
以前、道具は扱う人によっては凶器にもなることを感じた時、人もまた然りであると実感しました。人は本来は人ですが、使い方次第では凶器になるということ。心の平安を保つことで、私たちは人としての生き方を守っていくように思います。
禅はまさに、心の調和に導引する仕組みで満ちています。改めて、フルネスと暮らしを学び直していきたいと思います。