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宇都宮城の戊辰戦争 銃撃で土方歳三負傷 武士の時代終焉

2020.08.04 13:00

https://www.sankei.com/region/news/180101/rgn1801010013-n1.html  【宇都宮城の戊辰戦争 銃撃で土方歳三負傷 武士の時代終焉】

休日には親子連れの姿も目立ち、ランニングをするジャージー姿の老若男女、さまざまな市民が気軽に利用している宇都宮城址(じょうし)公園(宇都宮市本丸町)。市民の憩いの場である。

 また、西側のおほり橋からの入り口には復元された土塁の下に、宇都宮城ものしり館、まちあるき情報館があり、ボランティアガイドが市民や観光客を出迎え、宇都宮城の歴史などを丁寧に解説してくれる。一方、同園東側の清明館には、宇都宮の歴史と文化に関する歴史展示室や市民活動に利用できる多目的スペースがある。

 公園そのものは、幅11~26メートルの堀が周囲を囲み、高さ約10メートル、幅約20メートルの土塁、その上に土塀や櫓(やぐら)があり、城らしい外観を備えている。だが、城跡らしく復元されたのは平成19年のことだ。

 ◆旧幕府軍が奪取

 今から150年前の慶応4(1868)年、宇都宮城は周辺の町と共に焼失。東西850メートル、南北900メートルの大きな城で、関東七名城ともいわれた雄々しい姿は一切が焼け落ちた。戊辰戦争「宇都宮城の戦い」である。

 新政府軍と江戸幕府勢力が激突したこの戦いは、戊辰戦争のターニングポイントの一つとなった。

西郷隆盛と勝海舟の会談による江戸城無血開城。江戸の街は戦火を免れた。だが、幕府内の強硬派は、徳川家康を祭る日光に兵を集め、新政府軍と戦おうと考え、江戸を抜け出し日光を目指した。旧幕府軍別働隊約1千人には土方歳三ら新選組が参加していた。土方は宇都宮城に向かった。

 県立博物館の大越惟弘(よしひろ)さん(34)は「宇都宮藩主の戸田氏は幕府から処罰を受けて江戸にいたことなどから宇都宮藩は政治的決断ができず、苦労していた」と説明。「藩の生き残りを考え、新政府側に味方すると決めてから間がなく、兵士たちの士気は下がっていたのでは」。さらに「藩内では各地で世直し一揆が起き、城の守りが手薄になっていた」と指摘する。

 新政府側に付いた宇都宮藩だが、土方に隙を突かれ、難攻不落と言われた宇都宮城はわずか半日で陥落してしまった。だが、城を手に入れた土方にも誤算があった。宇都宮藩は敗走する際に城に火を放ち、土方が期待していた弾薬の補給ができなかったのだ。

 さらに新政府軍は頑強に抵抗する旧幕府軍を大砲で攻撃。松が峰門に攻め寄せ、土方はここで足を鉄砲で撃ち抜かれてしまう。「洋装するなど近代を意識していた土方だったが、どこかで、刀で切り込んでこそという考えを持っていた」(大越さん)。腕の立つ剣士と評判だった土方は旧来の武士らしい戦い方を捨てきれなかったのだろうか。

最新式の銃をそろえる新政府軍に次第に追い詰められていく旧幕府軍。宇都宮城を捨てて日光方面へと退却する。

 この戦いで城の建物はほとんど焼失した。さらに1キロ以上離れた宇都宮二荒山神社などの寺社を含めて広範囲に焼失しており、ところどころに戦死者の遺体が横たわっていたという荒廃ぶりだった。旧暦9月8日、時代は明治に変わった。

 ◆市民の声で復元

 焼け落ちた宇都宮城跡は残っていた建物も解体と払い下げで消えていく。一時期、陸軍の兵営として利用されたこともあったが、陸軍は明治22(1889)年に城跡を払い下げ。戦後、城跡の一部が本丸公園として整備され、市民の憩いの場として親しまれてきたが、周辺は都市開発の中で遺構はほとんど失われた。

 城の歴史を伝えようという市民の機運が高まり、平成元年以降、宇都宮城の発掘調査が続けられた。「よみがえれ!宇都宮城」市民の会が、市民への啓発活動を担った。昔の姿そのままではないが、史料を基に復元された。

宇都宮城ものしり館には土方のファンという若い女性もよく訪れる。宇都宮市文化財ボランティア協議会の岩渕煦美子(くみこ)さん(74)は「宇都宮城はすごいところだった。とっかかりは何でもいいので多くの人に知ってほしい」と話す。

 春には花見、秋には恒例の宇都宮餃子(ギョーザ)祭などでにぎわう。スマートフォン向け人気ゲーム「ポケモンGO」でも注目スポットになった。平成28年10月には、男が自殺のため爆弾を爆発させる事件を起こしたのは記憶に新しい。

 宇都宮を約500年支配した宇都宮氏初代・藤原宗円が築城したという伝説の時代から宇都宮明神(宇都宮二荒山神社)と共に繁栄し、政治の中心でもあり続けた宇都宮城。宇都宮氏断絶後も江戸幕府の藩主の居城だった。

 そんな宇都宮城が戊辰戦争の激戦地として大きな犠牲を払い、明治時代の出発点の一つとなったことは、現在ののどかな風景からは想像も付かない。さまざまな歴史が刻まれ、武士の時代の終焉(しゅうえん)を象徴する場所でもある。(斎藤有美)

                  

 明治元(1868)年から150年。日本は近代化の道を歩み始め、政治、産業、文化など全てが大きく変わり、新しい時代が始まった。県内も同様であり、日本の重要なターニングポイントとなった現場もある。明治維新、文明開化、殖産興業…。県内の明治時代を振り返る。

                  

 ■県内の主な明治時代のできごと

 明治元年 宇都宮城で新政府軍と旧幕府軍の戦闘

4年 藩が県となり、10県誕生。その後統合 宇都宮、栃木の2県に

   6年 日光金谷ホテルの前身、金谷カテッジイン開業。宇都宮、栃木両県合併

   7年 県内初の新聞「栃木新誌」発行

   9年 新田、山田、邑楽3郡が群馬県に移管

   10年 古河市兵衛が足尾銅山を買収

   11年 英国旅行家、イザベラ・バード来県

   13年 三島通庸が肇耕社を、印南丈作が那須開墾社を設立

   16年 三島通庸が県令(知事)に就任

   17年 県庁、栃木から宇都宮に移る

   18年 野沢紡績所創業。JR東北線の前身、日本鉄道大宮-宇都宮間が開通。那須疏水通水式

   21年 両毛鉄道が足利-小山間で営業開始

   23年 ドイツ人ホフマン考案の野木町煉瓦窯(旧下野煉化製造会社煉瓦窯)建造

   26年 日光金谷ホテル開業

   29年 宇都宮、市制施行

                  

 ■県内での戊辰戦争の経過

 慶応4(1868)年

  4・17 小山の戦い。大鳥圭介率いる旧幕府軍が宇都宮から南下した新政府軍に勝利

  4・19 土方歳三ら旧幕府軍が宇都宮城を攻撃。激戦となったが、旧幕府軍が城を占拠

  4・22 旧幕府軍が新政府軍安塚陣地(壬生町)を攻撃し、占拠したが反撃を受け、宇都宮城に撤退

  4・23 援軍を得た新政府軍が宇都宮城を奪還。旧幕府軍は日光方面へ退却

 閏4・21 今市宿(日光市)に布陣する板垣退助ら新政府軍が、旧幕府軍の攻撃を退ける

  5・6 旧幕府軍が今市宿を再攻撃。新政府軍が退ける。その後も会津西街道で戦闘続く

  8・23 新政府軍が三斗小屋宿(那須塩原市)で会津藩兵などの旧幕府軍を襲撃。数日間戦闘が続き、旧幕府軍は会津方面へ撤退

 ※日付は旧暦