アルストロメリアはヒガンバナ科
https://note.com/kousouryokunikki/n/n76f135d1606d【構想力は「ゼロ」を生み出す力(その1)】 より
2年前の2018年7月、『構想力の方法論 ビッグピクチャーを描け』(日経BP社)を出版した。知識創造理論(注:SECIモデル)で世界的に著名な経営学者、野中郁次郎氏との共著である。
そのときに未稿テキストが倍近くあった。300ページほどの本なので、およそ600ページ分の手稿があったことになる。それもそのはずで、この本の誕生までにはずいぶん年月がかかっている。
タイトルなし
構想力は奥深いテーマだ。
その奥深いテーマをめぐり、野中先生と度重なる対話をおこなった。その対話をもとに、たくさんの手稿が生み出された。それらの手稿は、幾度かの書籍化の試みのあと、一冊の形ある本として編み出された。
本の作業の現場は、さながらテキストやイメージのバザールである。本にならんとするテキストたちの野心は、どの一節をとっても並々ならぬものがある。著者は、テキストを生み出すと同時に削ぎ落とす矛盾した存在だ。成仏していない没テキストが蘇ってくる。
出版から2年が経ち、今年になって、新型コロナウィルスがさまざまな影響をもたらし、先が見えない恐怖が社会の停滞を生み出している。未来へのリスクで、みな思考停止になっている。構想力の必要性をあらためて感じた。そしていまいちど考えてみたいと思った。
そこで、この「構想力日記」をはじめることにした。状況が日々移り変わるこのようなときには、日記という形式が適しているのかもしれないと思ったからだ。
2年前には戦いに敗れた未稿テキストが、いまも自宅のPCの片隅で、虎視眈々とリベンジの時機をうかがっている。この日記を通してそれらに光をあて、また本に納まった勝者たちにも更新再生のチャンスを与えようと思う。
最初は、「ゼロ」の話から。
◇ 構想力とは何か?
構想力を英語辞書で引くとimagination。想像力と同じだ。けれど日本語でいうところの「構想力」と「想像力」の間には、おおきな開きがある。両者はあきらかに違う。どう違うかと考えてみると、構想力というのは、想像するだけでなく、生み出す、創り出す、組み立てる力だ。
「構」というのは誰があてた字なのか(江戸期には構思という語があった)。想うだけでなく、組み立てる、に力点を置かれている。つまりそれは実践でなければいけない。
想像から派生する言葉に妄想や空想などがあるが、構想力はもとより妄想でも空想でもない。そこには人や社会の意思や願いが込められている。
では構想力とはなんだろうか?
よくイノベーションについて語るとき、「ゼロから1を生め」という。「無から有を生む」のがイノベーションだと。でも本当にそうなんだろうか? そんなことが本当にできるのだろうか?
「ゼロから1」とわれわれがいうとき、そのゼロは特に意味をもっていない。イノベーションが起きていない今の状態や、起こせていない自分たちのおぼろげな現状を、とりあえず「ゼロ」と言っているだけである。そしてどこからともなくやってくる「1」に望みを託す。この、どこからともなくやってくる「1」が問題(イノベーション)だというわけである。
けれども本当に大事なのは「ゼロ」のほうだ。
「ゼロ」のほうが大事とは、いったいどういうことか、と思われるかもしれない。そのことについて考えてみよう。
◇ iPhoneの考古学
構想力とは「存在しないものを存在させる力」である。
『構想力の方法論』では、次のように書いた。
「構想する(像イメージをつくる)image building」とは、私たちが生きている現実から発しながらも、まだない世界をつくっていくことです。それは人類に備わった、進化のための知的技術といってもいいものです。これまでの人間の社会や歴史も、構想力が世界を形づくり、変えてきたのです。(『構想力の方法論』p.54)
ここで大事なのは、「存在しない」とか「まだない」ということである。そういう「不在」や「無」が、構想の原点となるということが言いたかった。
たとえばiPhoneやiPad。両者ともにカタチになるはるか以前に「元祖」があった。それは、アップルの研究開発ユニットから生まれたゼネラルマジック社のアイデアで、カメラとページャーを掛け算した「何か」だった。彼らは、現在のスマホにほぼ匹敵するようなものを構想していたが、1990年当時、そんなものは片鱗さえ存在していなかった。
そんなものはない、そんなものはできない、という無(夢)に向かって、彼らは大企業を集め、プロトタイプをつくった。そして、ビジネスとしては大失敗したのだった。
その後、ゆっくりとインターネットがやってきた。さらにずいぶん時が経って、その無が満たされた。2007年のiPhone誕生である。
What Happened to General Magic?
Inside the company that invented the iPhone — two decades too
www.brandknewmag.com
よく、何かを着想したりアイデアがひらめいたりしたときのことを、「無から有を生んだ」と言ったりするが、「無から有を生む」なんてことはそうそう簡単にできるものではない。至難の業、いやそれは神業である。たいていの場合、あとづけてそう表現しているだけだ。
構想力とは、無から有を生むことではない。
そうではなくて、「無」を発見し、「無」を見いだすこと、いったい何がないのかを示すこと、それが構想力の源泉なのだと思う。無は、「不完全さ」と言いかえてもいいだろう。
発見され、見いだされた「無」から、いろいろなものが見えてきたり、動きだしたりする。そうしてだんだんとその無や不完全さが満たされていく。そしてあるとき、機が熟したかのように、それまで存在しなかったものが存在するようになる。
この考えは、神経生物学、進化人類学のユニークな研究で知られる米国の神経学者テレンス・ディーコンから引き継いでいる。ディーコンの言説はなかなかに難解である。一筋縄ではいかない。けれどその自由な着想がずば抜けておもしろく示唆に富む。
次回は、ディーコン博士の考えに切り込んでみようと思う。(つづく)
紺野 登 :Noboru Konno
多摩大学大学院(経営情報学研究科)教授。エコシスラボ代表、慶應義塾大学大学院SDM研究科特別招聘教授、博士(学術)。一般社団法人Japan Innovation Network(JIN) Chairperson、一般社団法人Futurte Center Alliance Japan(FCAJ)代表理事。デザイン経営、知識創造経営、目的工学、イノベーション経営などのコンセプトを広める。著書に『構想力の方法論』(日経BP、18年)、『イノベーターになる』(日本経済新聞出版社、18年)、『イノベーション全書』(東洋経済新報社)他、野中郁次郎氏との共著に『知識創造経営のプリンシプル』(東洋経済新報社、12年) などがある。
くれなゐの零を集めて曼珠沙華 高資
コメントのやり取り
身近な句材を新鮮なまなざしで詠まれていらっしゃるようで、いつもハッとします。ゼロの不思議をも連想しました。
五島高資 「0」とするか「零」とするか、今以て迷っています。音的に「零」と推敲しましたが、ゼロ=無も捨てがたいですね。
0は、0を重ねた曼珠沙華の美しさを感じます。
零は、引き締まって良いですね。「数学の生い立ち」の零を連想できますが、この零を受けとめられる花は、やはり曼珠沙華だけのような気もしました。ゼロ=無は、表現の違いで類想句がありそうですね。
五島高資 ゼロ=無は仏教的に傾きがちですね。お心遣いありがとうございます。
彼岸花と言われる所以ですね。天のみ中主☆天は点!
天道虫流されてゐる交差点 辻村麻乃
ユークリッド幾何学における「点」は、位置以外のあらゆる要素を有しない。もっとも、実際の交通における交差点は、道路と道路が重なってできる一定の平面や面積などを持つゆえ、厳密な「点」ではない。もちろん、掲句における交差点は道路上の交差点と思われるが、それでもなお、ユークリッド幾何学における実体のない無限定な「点」を思い合わせると、天道虫が神の配剤にて邂逅するエトワスを想像せざるを得ない。
さらには天道虫の「天」と交差点の「点」という音韻的効果、さらには天道虫の羽にある「点」とも共鳴して不思議な時空がそこに流れているように感じられる。それは人と人との出会いであったり、偶然な出来事だったり、あるいは、それによって重大な結果をもたらした、あるいは、これからもたらされる可能性としての象徴かもしれない。ふだん何気なく使っている言葉が言葉を超える瞬間でもある。
いずれにしても、実景を超えて見えてくる様々な光景に「物の見えたる光」を言い留めた高次の詩境がそこに感じられる。そこではもはや天道虫も作者も一体化した物我一如の精神もうかがわれる。まさに至境の一句と言えるかも知れない。
交差点は十字架を連想させます。讃美歌では「義と愛の合えるところ」と謳い トランスパーソナルな見地からは 「深み・高みの縦と」「広がり・ディープエコロジーの横」のラインの交差をシンボライズさせます。
まさに 粒子であり波動である私たちを連想させます。「吾であり、宇宙である」、「和して同せず」の世界観です。