卑弥呼とシャーマニズム
http://chushingura.biz/p_nihonsi/episodo/001_050/epi008_01.htm 【邪馬台国(卑弥呼とシャーマニズム)】 より
1 邪馬台国、卑弥呼、誰もが知っている歴史用語です。3世紀頃の日本の歴史を調べました。残念ながら、この時代も日本の記録がないので、中国の史料を使います。
中国と朝鮮の情勢です。
220年、後漢が滅亡しました。
2三国時代
成立した国名 地域 成立年代 滅亡年代
魏 華北 220 265
蜀 四川 221 263 → 晋、三国を統一(280年)
呉 江南 222 280
3 313年、公孫氏の帯方郡は、朝鮮の高句麗により滅亡しました。
4 次は、中国史料に見る日本の情勢です。
239年、邪馬台国の女王卑弥呼は、遣使の難升米を魏の皇帝のもとに派遣しました。当時は三国時代です。魏の国は華北にあり、朝鮮半島に一番近い国、つまり日本からも一番親しい国となります。
240年、魏の皇帝は、女王卑弥呼に親魏倭王の称号と金印紫綬・銅鏡を授与しました。中平(184~189)銘の大刀、景初三年(239)銘の鏡、赤鳥七年(244の鏡が兵庫県から出土しています。
265年、魏の国が晋の国により滅ぼされました。
266年、卑弥呼の死後、男王が即死しましたが、倭国は大乱の状況となりました。そこで、卑弥呼の宗女である壹与が即位し、国中が安定しました。魏が滅んだので、晋に遣使しました。その後、中国の記録に日本が登場するのは、421年です。その150年間は重要の時期ですが、仕方がありません。
5 晋の陳寿が書いた『魏志』倭人伝で当時の日本を再現します。
(1)邪馬台国の位置については、2説あります。日本の統一時期を決定する問題です。
①北九州説を採用すると、3世紀には九州北部を領域とする30ばかりの小国の統合体ということになり、統一時期は3世紀後半から4世紀初めということになります。
②畿内説を採用すると、統一時期は、3世紀にということになります。
(2)次は、政治・身分制度です。
①政治制度としては、伊都には大卒(検察官)、諸国には大倭(監督官)を設置し、租税を徴収していました。
②身分制度としては、王の下に大人、大人の下に下戸、その下に奴隷としての生口がありました。
(3)女王卑弥呼については、「鬼道を事とし、よく衆を惑わす」と記録されています。
①鬼道とは呪術による支配(シャ-マニズム)のことで、これに従事する人を巫女といいます。巫女は未婚の女性が原則でした。今は、未婚の母もいたり、既婚の処女もいますから、未婚の処女という方が性格かもしれませんね。
②女王卑弥呼を補佐したのが男弟でした。
卑弥呼(ヒのミコ)が呪術し、男弟(又は夫)が取り次ぐ。これがシャーマニズム
1 私の大学生時代の話である。調査旅行で東北地方へ行ったときに、地元の人からこんな話を聞きました。
2 夫婦で畑仕事をしていました。妻が鍬をおっぽり出して、急いで家のほうへ飛んで帰りました。トイレに行ったにしては帰りが遅いので、夫が妻を呼びに帰りました。近所の人が大勢集まっているので何事かと見ると、屋根にまたがって妻が家を揺り動かしていました。近所の人はそれを見て、「神が乗り移った」と大騒ぎとなりました。
3 その後、妻は畑仕事や家事をせず、加持祈祷をして近所の人の相談や遠くから来た人の相談にのるようになりました。妻と客とは直接話をせず、夫がもっぱら取り次ぎました。こうしたことをシャーマニズムといいます。
4 神社の原初的な形は神がかりした女性を巫女(ミコ)といいます。ミコと客との間を取り持つのが神主です。卑弥呼も実はヒのミコで、男弟がいて、これを助けたといいます。今は神主がパートで女子大生をミコに採用する逆転した形になっています。
5 やがてこの男弟がミコを利用して権力を有する時代になっていきます。
https://blog.goo.ne.jp/siroi_1956/e/2cffce36c51547a3659c70b8e4d6a671 【日本最古のシャーマン卑弥呼は「女王」とは名ばかり 一地方の女酋長だった!?】 より
*魏に使者を送り「親魏倭王」に封じられる
日本でも人気の高い『三国志』は、「魏書」「呉書」「蜀書」からなる古代中国三国時代の歴史書で、陳寿によって3世紀末に書かれた。このうち「魏書」の「東夷伝(烏丸鮮卑東夷伝倭人条)」が、俗に『魏志倭人伝』と呼ばれるものであり、邪馬台国と卑弥呼に関する記述があることで知られている。『魏志倭人伝』によると、倭国は元々男王を立てていたが、70~80年も経つと国全体が長期間の騒乱に陥った(倭国大乱)。そこで、卑弥呼と云う少女を女王に立てると、混乱は鎮まったと謂う178~184年頃のことと推定される。...
他に、「卑弥呼は鬼道に長け、民衆を惑わした」、「夫を持たなかったが、弟がいて彼女を助けていた」などと云ったことが、『魏志倭人伝』には記されている。気になる卑弥呼と魏の関係だが、卑弥呼はかなり魏を頼りにしていた様だ。239年より、卑弥呼は度々朝鮮半島の帯方郡を経由して魏に使者を送り、魏の二代皇帝・曹叡から「親魏倭王」の封号を与えられている。曹叡は三国時代の英雄の一人、曹操の孫である。
247年、狗奴国との抗争に際しても魏に協力を求めたが、間もなく卑弥呼は死去。大きな墳墓が造られ、百余人が殉葬された。その後、邪馬台国には男王が立つものの、人々はこれに服さず内乱が勃発。千余人が命を落すこととなった。この内乱は、13歳の卑弥呼の跡継ぎの娘・臺與(とよ)が王に立ったことでようやく治まったと謂う。女王となったこの臺與もまた、魏に使者を送っている。『晋書』に記載のある最後の邪馬台国からの入貢は265年。少なくとも、この時期までは邪馬台国は存在していたと云うことだろう。
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*日本を治めていた女王ではなく 北九州の土侯国の女酋長!?
そもそもの話になってしまうが、『魏志倭人伝』に書かれていることは、どこまで信用して良いのだろう。
大体にして、日本に文字が伝わったのは5世紀以降、卑弥呼の時代はまだ日本に文字が伝わっていないのだ。にも関わらず、邪馬台国の使者が自前の親書を持って行ったと云うことからして怪しい。あまつさえ、外交文書と云うのは、一つ一つの文言が物を言う。そんな微妙なニュアンスを込めた言葉を綴るテクニックを、当時の日本人が持っていたとは、少し考え難い。
このことから、卑弥呼が魏の皇帝に宛てた親書と云うのは、大陸で作成されたと考えるのが妥当である。使者が手ぶらではさすがに絵にならない。そう考えた魏側の人間の誰かが、使者の伝える言葉を聞き取って、然るべき親書を創作したのだろう。
従って、帯方郡(場所は現在の平壌の南やソウルなど諸説ある)から邪馬台国への道程も、魏側で把握できる範囲では正確である可能性が高いが、日本の領土に入ってからは、かなりアバウトであったと考える方が無難だ。邪馬台国の所在地を今尚確定できない理由の一つに、『魏志倭人伝』に記された距離などの数字を信じ過ぎると云うのがあるのではないだろうか。
もう一段推理を進めるなら、当時邪馬台国が日本全体を治めていたと云うのも眉唾ものだ。研究によると、大和朝廷による統一国家の成立は4世紀。それまで、倭国に多くの国が乱立していた邪馬台国もその一つに過ぎない。
記述によれば、4世紀の人らしい仲愛天皇や神功皇后が筑紫に現れて北九州を支配下においたわけだが、その1世紀も前に邪馬台国は滅びていたと謂う。中国の史書とも矛盾無く一致するのである。時に卑弥呼をして「日本の初代女王」だったと云う言われ方をするのは、してみると大袈裟な話である。中国に朝貢し、史書に記載されたことが、即ち日本の代表と云うことにはならない。仮に、邪馬台国が北九州にあったとするなら、卑弥呼はその地にあった土侯国(首長国)の女酋長に過ぎないと言える。
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*諸説ある卑弥呼の墓 本物はどこにある?
謎に包まれた卑弥呼だが、その墓もどこにあるのか定かではない。奈良県桜井市にある箸墓古墳や、福岡県糸島市にある平原遺跡など、卑弥呼の墓である可能性のある墓所は多数あり、どれもが決定打に欠けているのだ。その他に、卑弥呼と同一人物ではないかと議論の的になっている人物も多数いる。例えば三韓征伐で知られる神功皇后は、『日本書紀』の「神功皇后紀」に於いて、『魏志倭人伝』の卑弥呼に関する記述を引用して説明されている。しかし前述した様に、神功皇后の活躍した年代は卑弥呼よりも1世紀近く後世の記録とされているので卑弥呼とは言えないのである。
*まとめ
外交にも積極的だったが、その王国は歴史から消失