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俳人蕪村 ④

2020.08.07 14:39

http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/taiju_annex/1899_haijinbuson.htm 【俳人蕪村】より

縁語及譬喩

蕪村が縁語其他文字上の遊戲を主としたる俳句をつくりしは怪むべきやうなれど、其句の巧妙にして斧鑿の痕を留めず、且つ和歌若しくは檀林支麥の如き沒趣味の作を爲さゞる處、亦以て其技倆を窺ふに足る。縁語(*掛詞を含めて用いている。)を用ゐたる句、

春雨や身にふる頭巾着たりけり

出代や春さめ\〃/と古葛籠

近道へ出てうれし野のつゝじかな

愚痴無智のあま酒つくる松が岡

蝸牛や其角文字のにじり書(*下手な文字)

橘のかはたれ時や古館

橘のかごとがましき袷かな

一八(*いちはつ)やしやが父に似てしやがの花

夏山や神の名はいさしらにぎて(*白和幣)

藻の花やかたわれからの月もすむ

忘るなよ程は雲助時鳥

(*「忘るなよ程は雲居になりぬとも空行く月のめぐり逢ふまで 」〔『拾遺集』橘忠幹〕)

角文字のいざ月もよし牛祭

(*「ふたつ文字牛の角文字すぐな文字ゆがみ文字とぞ君はおぼゆる」〔『徒然草』〕)

葛の葉のうらみ顔なる細雨かな

(*「恋しくば尋ね来て見よ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉.」〔『信太妻』、他〕)

頭巾著て聲こもりくの初瀬法師

晉子三十三囘忌辰

擂盆(*刷本を掛けるか。味噌を擂るで縁語。)のみそみめぐりや寺の霜

又は

題白川

黑谷の隣は白し蕎麥の花

の如き固有名詞をもぢりたるもあり。又は

短夜や八聲の鳥(*鶏)は八ツに啼く

茯苓は伏しかくれ松露は露れぬ

思古人移竹

去來去り移竹移りぬ幾秋ぞ

の如く文字を重ねかけたるもあり。

俳句に譬喩を用ゐる者俗人の好む所ろにして(*、)其句多く理窟に墜ち趣味を沒す。蕪村の句時に譬喩を用ゐる者ありといへども譬喩奇拔にして多少の雅致を具ふ。亦支麥輩の夢寐にも知らざる所なり。

獨鈷鎌首水かけ論の蛙かな

苗代の色紙に遊ぶ蛙かな

心太さかしまに銀河三千尺

夕顔のそれは髑髏か鉢叩

鴛鴦や國守の沓も錦革  (*雄鳥の格好を錦沓に見立てた。)

あたまから蒲團かぶれば海鼠かな

水仙や鵙の草莖花咲きぬ

ある隱士のもとにて

古庭に茶筌花咲く椿かな

雁宕(*砂岡雁宕)久しく音づれせざりければ

有と見えて扇の裏繪覺束な

波翻舌本吐紅蓮

閻王の口や牡丹を吐かんとす

蟻垤

蟻王宮朱門を開く牡丹かな

(*夢に胡蝶となって舞い降りる連想があるか。)

浪花の舊國主して諸國の俳士を集めて圓山に會筵しける時

萍を吹き集めてや花筵

傚素堂

乾鮭や琴に斧うつ響あり

(*『宇津保物語』「俊蔭」巻の連想があるか。)

時代

蕪村は享保元年に生れて天明三年に歿す。六十八の長壽を保ちしかば其間種々の經歴もありしなるべけれど、大體の上より觀れば文學美術の衰へんとする時代に生れて其盛ならんとする時代に歿せしなり。俳句は享保に至りて芭蕉門の英俊多 くは死し支考乙由等が殘喘を保ちて益俗に墮つるあるのみ。明和以後枯楊孽を生じて漸く春風に吹かれたる俳句は天明に至りて其盛を極む。俳句界二百年間元祿と天明とを最盛の時期とす。元祿の盛運は芭蕉を中心として成りし者、蕪村の天明に於けるは芭蕉の元祿に於けるが如くならざりしと雖も、天明の隆盛を來せし者其力最も多きに居る。天明の餘勢は寛政文化に及んで漸次に衰へ文政以後復痕迹を留めず。

和歌は萬葉以來新古今以來一時代を經る毎に一段の墮落を爲したる者(*、)眞淵出でゝ僅に之を挽囘したり。眞淵歿せしは蕪村五十四歳の時、略〃其時を同じうしたれば和歌にして取るべくは蕪村は之を取るに躊躇せざりしならん。されど蕪村の句其影響を受けしとも見えざるは音調に泥みて清新なる趣味を缺ける和歌の到底俳句を利するに足らざりしや必せり。

當時の和文なる者は多く擬古文の類にして見るべきなかりしも、擬古といふこと は或は蕪村をして古語を用ゐ古代の有樣を詠ぜしめたる原因となりしかも知らず。而して蕪村は此材料を古物語等より取りしと覺ゆ。

蕪村が最も多く時代の影響を受けしは漢學殊に漢詩なりき。且つ漢學は蕪村が少年の時に寧ろ隆盛を極め徂徠一派は勃興したるなり。蕪村は十分に徂徠の説を利用し以て腐敗せる俳句に新生命を與へたるを見る。蕪村は徂徠等修辭派(*古文辞学派)の主張する、文は漢以上(*以前)、詩は唐以上と言へるが如き僻説には同意する者にあらざるべけれど、唐以上の詩を以て粹の粹と爲したること疑あらじ。蕪村が書ける春泥集の序(*召波〔春泥舎〕『春泥句集』〔1777〕序。離俗論を述べる。)の中に曰く

(略)彼も知らず我も知らず自然に化して俗を離るゝの捷徑ありや(*。)答曰(*、)詩を語るべし(*。)子もとより詩を能す(*。)他に求むべからず(*。)波疑敢問(*、)夫詩と俳諧といさゝか其致を異にするを(*、)俳諧を捨て詩を語れと云(*、)迂遠なるにあらずや(*。)答曰(略)畫の俗を去だにも筆を投じて書を讀しむ(*。)况詩と俳諧と何の遠しとする事あらんや(*。) (略)

(略)詩に李杜を貴ぶに論なし(*。)猶元白を捨ざるがごとくにせよ(*。)(略)

之を讀まば蕪村が漢詩の趣味を俳句に遷しゝ事も李杜を貴び元白を賤みし事も明瞭ならん。漢書は蕪村の愛讀せし所(*、)其詩を解すること深く、芭蕉が極めておぼろに杜甫の詩想を認めしとは異なりしなるべし。

繪畫の上よりいふも蕪村は衰運の極に生れて盛ならんとして歿せしなり。蕪村は自ら畫を造りしこと多く南宗の畫家として大雅と並稱せらる。天明以後繪畫俄かに勃興して美術史に一紀元を與へたる事に就きて蕪村も亦多少の原因を爲さゞりしには非るも、其影響は極めて微弱にして、彼が俳句界に於ける關係と同日に論ずべきに非ず、(*。)

天明は狂歌盛んに行はれ黄表紙漸く勢を得たる時なり。されど俳句とは直接に關係する所無し。只此時代が文學美術全般の勃興を成したるは文運の隆盛を促すべ き大勢に驅られたる者にして、其大勢なる者は却て各種の文學美術が相互に影響したる結果も多かりけん。

蕪村の交りし俳人は太祇(*・)蓼太(*・)曉臺等にして其中曉臺は蕪村に擬したりとおぼしく(*、)蓼太は時々ひそかに蕪村調を學びし事もあるべしといへども、太祇に至りては蕪村を導きしか蕪村に導かれしか今之を判するを得ず。とにかくに蕪村が幾分か太祇に導かれし部分もあり得べきを信ずるなり。然れども彼が師巴人に受くる所多からざりしは成功の晩年にありしを見て知るべし。

履歴性行等

蕪村は攝津浪花に近き毛馬塘の片ほとりに幼時を送りしこと其春風馬堤曲に見ゆ。彼は某に與ふる書中に此曲の事を記して「馬堤は毛馬塘なり(*。)則余が故園なり」 といへり。稍長じて東都に遊び巴人の門に入りて俳諧を學ぶ(*。)夜半亭は師の名を繼げるなり、(*。)寶暦の頃なりけん(*、)京に歸りて俳諧漸く神に入る。蕪村もと名利を厭ひ聞達を求めず(*、)然れども俳人として彼が名譽は次第に四方雅客の間に傳稱せらるゝに至りたり。天明三年十二月廿四日夜歿し亡骸は洛東金福寺に葬る。享年六十八。蕪村は總常兩毛奧羽など遊歴せしかども紀行なるものを作らず。又其地に關する俳句も多からず(*原文「多らず」)。西歸の後丹後に居ること三年因て谷口氏を改めて與謝とす。彼は讃州に遊びしこともありけん(*、)句集に見えたり。又嚴島の句あるを見るに此地の風情寫し得て最も妙なり(*、)空想の及ぶべきにあらず。蕪村或はこゝにも遊べるか。

蕪村は讀書を好み和漢の書何くれとなくあさりしも字句の間には眼もとめず只だ大體の趣味を翫味し且滿足したりしが如し。俳句に古語古事を用ゐること蕪村集の如く多きは他に其例を見ず。

彼が字句に拘らざりしは古文法を守らず假名遣に注意せざりし事にもしるけれど 猶ほ其他に爾か思はるゝ所多し。一例を擧ぐれば彼が自筆の新花摘に

射干して咡く近江やわたかな

とあり。射干は「ひあふぎ」「からすあふぎ」などいへる花草にして、こゝは「照射して」の誤なるべし。蕪村が照射と射干との區別を知らざる筈はなけれど斯る事に無頓著の性とて氣のつかざりしものならん。近江も大身と書くべきにや。秀吉が奧州を「大しゆ」と書きしことさへ思ひ出されてなつかし、蕪村の磊落にして法度に拘泥せざりし事此類なり。彼は俳人が家集を出版することをさへ厭へり。彼の心性高潔にして些の俗氣なき事以て見るべし。然れども余は磊落高潔なる蕪村を尊敬すると同時に、小心ならざりし、餘り名譽心を抑へ過ぎたる蕪村を惜まずんばあらず。蕪村をして名を文學に揚げ譽を百代に殘さんとの些の野心あらしめば彼の事業は此に止まらざりしや必せり。彼は恐らくは一俳人に滿足せざりしならん。春風馬堤曲に溢れたる詩思の富贍にして情緒の纒綿せるを見るに十七字中に屈す べき文學者にはあらざりしなり。彼は其餘勢を以て繪事を試みしかども大成するに至らざりき。若し彼をして力を繪畫に伸ばさしめば日本畫の上に一生面を開らき得たるべく應擧輩をして名を擅にせしめざりしものを、彼はそれをも得爲さゞりき。余は日本の美術文學のために惜む。

春風馬堤曲とは俳句やら漢詩やら何やら交ぜこぜにものしたる蕪村の長篇にして蕪村を見るにはこよなく便となる者なり。俳句以外に蕪村の文學として見るべき者もこれのみ。蕪村の熱情を現したる者もこれのみ。春風馬堤曲とは支那の曲名を眞似たる者にて、其斯く名けし所以は蕪村の書簡に詳なり。書簡に曰く

一春風馬堤曲〔馬堤は毛馬塘なり/即ち余が故園なり〕(*〔 〕内は原文割注。以下同じ。)

余幼童之時春色清和の日には心友どちと此堤上にのぼりて遊び候(*。)水には上下の船あり(*、)堤には往來の客あり(*。)其中には田舍娘の浪花に奉公してかしこく浪花の時勢粧に倣ひ髪かたちも妓家の風情をまなび○(*ママ)傳しげ太夫の心中のうき名 をうらやみ故郷の兄弟を恥いやしむ者有り(*。)されども流石故園情に不堪偶〃親里に歸省するあだ者成べし(*。)浪花を出てより親里迄の道行きにて引道具の狂言座元夜半亭と御笑ひ可被下候(*。)實は愚老懷舊のやるかたなきよりうめき出たる實情にて候。

代女述意と稱する春風馬堤曲十八首に曰く

やぶ入や浪花を出て長柄川

春風や堤長うして家遠し

堤下摘芳草  荊與棘塞路  荊棘何無情  裂裙且傷股

溪流石點々  踏石撮香芹  多謝水上石  教儂不沾裙

一軒の茶店の柳老にけり

茶店の老婆子儂を見て慇懃に無恙を賀し且儂が春衣を美む

店中有二客  能解江南語  酒錢擲三緡  迎我讓榻去  (*緡銭〔びんせん・さしぜに〕:100文)

古驛三兩家猫兒妻を呼妻來らず

呼雛籬外雞  籬外艸滿地  雛飛欲越籬  籬高隨三四

春草路三叉中に捷徑あり我を迎ふ

たんぽゝ花咲り三々五々五々は黄に三々は白し記得す去年此路よりす

憐しる蒲公莖短して乳を浥す

むかし\/しきりにおもふ慈母の恩慈母の懷抱別に春あり

春あり成長して浪花にあり

梅は白し浪花橋邊財主の家

春情まなび得たり浪花風流  (*原文字下げ無し。)

郷を辭し弟に負て身三春

本をわすれ末を取接木の梅

故郷春深し行々て又行々

楊柳長堤道漸くくれたり

矯首はじめて見る故園の家黄昏戸に倚る白髪の人弟を抱き我を待春又春

君不見古人太祇が句

藪入の寢るやひとりの親の側

猶此外に澱河歌三首あり。此等は紀行的韻文とも見るべく諸體混淆せる叙情詩とも見るべし。惜いかな、蕪村は之を一篇の長歌となして新體詩の源を開く能はざりき。俳人として第一流に位する蕪村の事業も之を廣く文學界の産物として見れば誠に規摸の小なるに驚かずんばあらず。

蕪村は鬼貫句選の跋にて其角、嵐雪、素堂、去來、鬼貫を五子と稱し、春泥集の序にて其角、嵐雪、素堂、鬼貫を四老と稱す。中にも蕪村は其角を推したらんと覺ゆ、「其角は俳中の李靑蓮(*李白)と呼れたるもの也」といひ「讀むたびにあかず覺ゆ是角がまされる所也」ともいへり。しかも其缺點を擧げて「其集も閲するに大かた解し がたき句のみにてよきと思ふ句はまれ\/なり」といひ「百千の句のうちにめでたしと聞ゆるは二十句にたらず覺ゆ」と評せり。自己が唯一の俳人と崇めたる其角の句を評して佳什二十首に上らずといふ、見るべし蕪村の眼中に古人なきを、其五子と稱し四老を稱す(*、)固より比較的の賛辭にして、芭蕉の俳句といへども其一笑を博するに過ぎざりしならん。蕪村の眼高きこと此の如く手腕亦之に副ふ(*。)而して後に俳壇の革命は成れり。

ある人咸陽宮の釘かくしなりとて持てるを蕪村は誹りて「中々に咸陽宮の釘隱しと云はずばめでたきものなるを(*、)無念の事におぼゆ」といへり。蕪村の俗人ならぬこと知るべし。蕪村甞て大高源吾より傳はる高麗の茶碗といふをもらひたるを、それも咸陽宮の釘隱しの類なりとて人にやりし事あり。又ある時松島にて重さ十斤ばかりの埋木の板をもらひて、辛ふじて白石の驛に持出でしが、長途の勞れ堪ふべくもあらずと、旅舍に置きて歸りたりとぞ。此等の話しを取りあつめて考ふ れば蕪村の人物は自から描き出されて目の前に見る心地す。

蕪村とは天王寺蕪(*大阪の伝統的野菜)の村といふ事ならん(*。)和臭を帶びたる號なれども字面はさすがに雅致ありて漢語としても見られぬにはあらず。俳諧には蕪村又は夜半亭の雅名を用うれど畫には寅、春星、長庚、三菓、宰鳥、碧雲洞、紫狐庵等種々の名異名ありきとぞ。彼の謝蕪村、謝寅、謝長庚、春星など言へる、門弟にも高几董、阮道立(*樋口道立。江村北海の子。)などある、此一事にても彼等が徂徠派の影響を受けしこと明なり、二字の苗字を一字に縮めたる(*単姓に修姓すること。文人趣味の一つ。)は言ふ迄も無く其字面より見るも修辭派の臭味を帶びたり。

蕪村の繪畫は余曾て見ず、故に之を品評すること難しと雖も其意匠に就きては多少之を聞くを得たり。(筆力等の技術は其書及び俳畫を見て想像するに足る(*。))蕪村は南宗より入りて南宗を脱せんと工夫せしが如し。南宗を學びしは其雅致多きを愛せしならん。南宗を脱せんとせしは南宗の粗鬆なる筆法、狹隘なる規模が能く自己の美想を現すを得ざりしが爲ならん。彼は俳句に得たると同じ趣味を繪畫に 現したり。固より古人の粉本を摸し意匠を剽竊することを爲さゞりき。或は田舍の風光、山村の景色等自己の實見せし者(且つ古人の畫題に入らざりし者)を捉へ來りて支那的空想に耽りたる繪畫界に一生面を開かんと企てたり。或は時間を寫さんとし、或は一種の色彩を施さんとして苦心したり(*。)(色彩に關する例を擧ぐれば春の木の芽の色を樹によつて染分けたるが如き、夜間燈火の映じたる樹を寫したるが如き)繪畫に於ける彼の眼光は極めて高く、到底應擧呉春(*松村月渓。四条派の祖。)等の及ぶ所に非ず。然れども蕪村は成功する能はずして歿し、却て豎子をして名を成さしめたり。

蕪村の畫を稱する者多く俳畫をいふ。俳畫は蕪村の書きはじめし者にして一種摸すべからざるの雅致を存す。然れども俳畫は字の如き者のみ、終に畫に非ず、(*。)畫を知らざる者之を以て畫となす、取らざるなり。蕪村の字支那の書風より出でゝ稍和習あり。縱横自在にして法度に拘らず、しかも俗氣無きこと俳畫に同じ。

蕪村の文章流暢にして姿致あり。水の低きに就くが如く(*、)澁滯する所無し。恨むらくは彼は一篇の文章だも純粹の美文として見るべき者を作らざりき。

蕪村の俳句は今に殘りし者一千四百首あり、千句の俳句を殘したる俳人は四五人を出でざるべし。蕪村は比較的多作の方なり。然れども一生に十七字千句は文學者として珍とするに足らず。放翁(*陸放翁・陸游)は古體今體を混じて千以上の詩篇を作りしに非ずや。只だ驚くべきは蕪村の作が千句盡く佳句なることなり。想ふに蕪村は誤字違法などは顧ざりしも俳句を練る上に於ては小心翼々として一字苟もせざりしが如し、古來文學者の爲す所を見るに多くは玉石混淆せり、爲す所多ければ巧拙兩ながらいよ\/多きを見る。杜工部集の如き是なり。蕪村の規模は杜甫の如く大ならざりしも、兎に角千首の俳句盡く巧なるに至りては他に例を見ざる所なり。蕪村の天材は咳唾盡く珠を成したるか、蕪村は一種の潔癖ありて苟も心に滿たざる句は之を口にせざりしか、抑も惡句は埋沒して佳句のみ殘りたるか。余は三者 皆な原因の一部を分有したりと思ふ。俳句に於ける蕪村の技倆は俳句界を横絶(*横切ること。「鴻鵠四海を横絶す」のように使う。)せり、終に芭蕉其角の及ぶ所に非ず。連句も亦蕪村は蕪村流を應用して面目を新にせり。然れども蕪村は芭蕉が連句に力を用ゐしだけ、熱心には力を爰に伸さゞりき。

蕪村の俳諧を學びし者月居(*・)月渓(*呉春)(*・)召波(*・)几圭(*几董の父)(*・)維駒(*召波の子)等皆師の調を學びしかども獨り其堂に上りし者を几董とす、几董は師號を繼ぎ三世夜半亭を稱ふ。惜むべし(*、)彼れ蕪村歿後數年ならずして亦歿し、蕪村派の俳諧茲に全く絶ゆ。

明治廿九年草稿

明治卅二年訂正

俳人蕪村 終

俳人蕪村附録

蕪村と几董

獺祭書屋主人

芭蕉は去來に傳へ、去來は傳ふる所無し。蕪村は几董に傳へ、几董は傳ふる所無し。去來の器は芭蕉の器の大なるに如かず、几董の才は蕪村の才の敏なるに及ばざりしなり。芭蕉の俳諧は自然にして善く變化す、去來は自然の趣を得て、しかも變化する能はざりき。蕪村の俳諧は勁健にして且つ自然なり、几董は勁健の處を學びて、しかも自然なる能はざりき。但去來の精醇と几董の洗錬とは各其面目を現して優に時流に超出する者、此點に於て芭蕉蕪村猶如かざる所あるを見る。

几董は高井氏、春夜樓といひ晋明といふ。京師の人、几圭の子なり。几圭は宋阿(*巴人)の弟子にして蕪村の友なり。几董蕪村に從ふて俳諧を學ぶ。幾多の門弟中、嶄然 として頭角を露す。蕪村歿するに及びて夜半亭を繼ぐ。寛政元年歿す。蕪村の死に後るゝ事僅に六年なり。

余常に想ふ、蕪村死すると共に蕪村の系統全く絶えて其流派の傳はらざりし者、几董が直に蕪村に續ぎて世を去りしに因らずんばあらず。若し之れに年を假すこと猶十餘年ならしめば、よし其眞髓は傳はらざりしとも、少くも其形式上の相續者を出すべく、形式上の相續者だにあらば虚更に實を生じて多少の俳人を生ずること無しとせんや。然らば則ち蕪村の系統絶つ者は天か。

又想ふ、几董をして人を教ふるの學と人をなつくるの德とあらしめば、蕪村生存中と雖ども猶弟子を導くこと、芭蕉生存中の其角の如きを得べし。况んや蕪村死後六年の間に於て、彼は其技倆を現すべき機會を有したるをや。彼が一人の相續者をも造る能はざりしは其力の足らざりし事を證明するの外はあらず。然らば則ち蕪村の系統(*原文「系絶」)を絶つ者は几董か。

然れども一世の風潮を支配すべき偉人を生ずるは時運にして人にあらず。教育し啓發すべきは第二流以下のみ。孔子の聖ありて孔門の十哲あり、しかも孔子は第二の孔子を造る能はず。芭蕉の德ありて蕉門の十哲あり、しかも芭蕉は第二の芭蕉を造る能はず。蕪村の大才にして僅に一几董を得たるが如き、第二流の人猶時運に關する者あるを知る。蕪村が蕪村を造る能はざりしも亦怪むに足らざるなり。何ぞ几董に於て之を責めん、几董に形式上の相續者無かりしは、たま\/以て其純潔、人に媚びず世を衒せざるを見るに足る。彼蓼太の如き門弟天下に滿ちて一人の俳人らしき者をも出ださゞるに比して高き事幾等ぞ。

几董には多少の學識あり。普通俳人の無學無識に比すべくもあらず。さはれ彼の學識も深淵該博なるにはあらずして寧ろ蕪村の餘波を受けたるがために幾何の修養を得しに過ぎざるべし。且つ彼の才は小に適して大に適せず。其作る所の文章の如きは穉氣を免れず。蕪村終焉記は彼が畢生の力を盡して書ける者から、修飾 に過ぎて摯實ならざる、恰も小兒が大人の語調を學ぶが如くにして稍厭ふべし、其俳句の端書(*前書)は文章拙しとにはあらねど其端書の無用なる者多きに至りては見識の卑きことを示すに過ぎず。謂ふ所の俳諧宗匠にして僅に四五册の書を讀みし者好んで俳句の端書を作り以て俗人を瞞着せんとすること少からず。几董も亦此流弊を脱する能はざりしなり。余几董のために惜む。

几董の俳句は蕪村の大作に及ばざりしも亦俳諧界有數の大家たるを失はず(*原文「失はす」)。白雄、曉臺、闌更の徒に比肩して却て一頭地を拔かんとする者あり。其句の勁拔にして一字の懈筆無きは彼の長所にして、觀察の細微にして却て俗に陷らざるは彼の特色なり。彼が一句を作るには多時の熟慮を要せし者と覺しく、一字の推敲に案じわづらひて闇黑の裡に捨て去りし半成の名句、思ふに應に少からざるべし。故に彼の句には全體に無味なる者あるも一語一字の易ふべき者を見ず。蓋し彼は性の鈍きに拘らず、黽勉刻苦、工夫を積みて而して後に此境に到りしならんか。彼と 性を同くする者彼の俳句を讀まば必ず多少の發明する所あるべし。余も亦彼に導かれたる一人なり。彼の自撰句集を井華集といふ。

几董の俳句半ば之を蕪村に學び半ば之を太祇に得たり。全句の氣格よりしていふ時は寧ろ太祇に似たる者多からん。今は其句と蕪村の句とを駢列して之を比較するに止めん。

蕪村の句と几董の句とを比す。(*、)雄勁の處相似たり。瑰麗の處相似たり。奇警の處相似たり。用語の清新にして自在なる處相似たり。其異なる處をいはんか、蕪村の規模は大にして几董の規模は小なり。蕪村は一氣呵成の句に乏しからず、几董は曲折容を爲す者極めて多し。蕪村は材料富贍にして配合斬新なり。几董は尋常事物に就きて或る新奇なる場合を擇び、平凡なる現象を極めて明瞭に叙し、陳腐なる趣向に一點の生命を與へて能く之を新鮮ならしむるの妙を得たり。之を要するに蕪村の句集は到る處に天才の流動煥發するを見、几董の句集は苦心の痕跡の 此處彼處に存在するを認む。多數の人は蕪村句集を讀みて得る所の一種の愉快なる感情を井華集中に見出だすこと能はざるべし。是れ實に几董の蕪村に及ばざる所なり。只吾儕遲鈍の者其經營慘澹の跡を見て昇天の金楷を得たるが如き心地に多少の愉快を感ぜずんば(*原文「感ぜずんは」)あらず。

左に並記する句は蕪村几董二人の作の稍相似たる者なり。其相似たるは暗合もあるべく或は蕪村が几董を模したるもあるべけれど、概して几董が蕪村を學びたること論を竢たず。他を摸倣して眞髓を得れば摸倣は其痕跡を止めず。几董の佳什亦然り。其摸倣の痕跡ある者は寧ろ句の拙き者にして、其摸倣せらるゝ原句も亦天籟的の作ならざるべし。左記の句多くは然り。然れども同一の材料又は語句を主眼として二樣の句作あるは之を比較して研究するに極めて利あり。其痕跡の明らさまなる程それ程猶興味を感ぜん。

蕪村

┏ 折釘に烏帽子かけたり春の宿

几董

┗ 正月や烏帽子かけたる木工頭

蕪村

┏ 長き夜や通夜の連歌のこぼれ月

几董

┗ 春の夜や連歌滿ちたる九條殿

蕪村

┏ 衣がへ印籠買ひに所化二人

几董

┗ 摘草や印籠提げし尼の公

右三對の句を比較するに蕪村の趣向は皆几董よりも複雜なり。されど之を讀むに蕪村の句は自然にして几董(*原文「凡董」)の句には工夫あるを覺ゆ。是れ實際に於て蕪村の句は複雜ながら自然に口より漏れし者なるべく、几董の句は簡單ながら工夫を費したるなるべし。蕪村の句は自然なるが故に勢ひあり。勢あるが(*原文「あるか」)故に句法に變化あり。几董の句は工夫せしが故に活動せず、活動せざるが故に句法悉く同じ。見よ、几董の三句は初五皆「や」の切字を用ゐ、中七の初に賓格的名詞(*目的格の名詞)を置き、次に連體動詞を置き、終五には一箇の人物を著く。三句皆同一模型を取る者固より故意にあ らずといへども、工夫の上より製作したるがために自ら同一の痕跡を止めし者と覺ゆ。

蕪村

┏ 手燭して庭蹈む人や春惜む

几董

┗ 行燈をとぼさず春を惜みけり

蕪村

┏ 梶の葉を朗詠集の栞かな

几董

┗ 道の記に假の栞やつく\/し

蕪村

┏ 蒲公英の忘れ花あり路の霜

几董

┗ 山吹の忘れ花咲く清水かな

蕪村  (*狩野探幽の名)

┏ 時鳥繪に鳴け東四郎次郎

几董

┗ 探幽が曙の夢や時鳥

蕪村

┏ 蝸牛其角文字のにじり書

┃   金福寺芭蕉庵落成

几董

┗ 角文字のいほりに題す蝸牛

蕪村

┏ 淺河の西し東す若葉かな

几董

┗ 紅楓深し南し西す水の隅

蕪村

┏ 鮒鮓や彦根の城に雲かゝる

几董  (*宇治山)

┗ 鮎汲や喜撰が嶽に雲かゝる

此等は最も相類似する者(*、)痕跡甚だ露る。されど朗詠集の梶の葉に對して道の記と土筆の配合を爲したるが如き、霜の蒲公英を學びて清水の山吹を見出したるが如きは凡庸作家の手段にあらざるを見ん。但鮒鮓と鮎汲との句は剽竊に近し、蓋し几董が蕪村の句あることを忘れて作りし者ならんか。

蕪村

┏ 阿古久曾の指貫ふるふ落花かな

几董

┗ 山吹や指貫濡るゝ歩わたり

風吹く夕の櫻狩、雨霽るゝ朝の野の遊び、いづれも土佐(*土佐派)の極彩色なるべし。

蕪村

┏ 銀杏蹈んで靜に兒の下山かな

几董

┗ 御しのびの下山や萩のから衣

前と同じやうの對ながら「銀杏蹈んで」の一語は全句に活動を與へたり。

蕪村

┏ 腰ぬけの妻うつくしき火燵かな

几董

┗ 朝顔や悋氣せぬ妻うつくしき

同じ七字を用ゐながら意匠の毫も相侵さゞる處見るべし。

蕪村

┏ 初雪の底をたゝけば竹の月

几董

┗ 底たゝく春の隅より遲櫻

蕪村

┏ 紅葉見や用意かしこき傘二本

几董

┗ かしこくも花見に來たり翌は雨

蕪村  (*「いざ行かむ雪見にころぶところまで」〔芭蕉〕を踏まえる。)

┏ いざ雪見かたちづくりす蓑と笠

几董

┗ 梅の樹のかたちづくりす初時雨

蕪村  (*『伊勢物語』東下りを踏まえる。)

┏ かれ飯にからき涙や蕃椒

几董  (*原文「かけにして」)

┗ かげにして蕃椒くふ涙かな

換骨脱胎(*ママ)の工夫を知るべし。

蕪村

┏ 賣卜先生木の下闇の訪はれ顔

几董

┗ 藤棚や酒賣る家の訪はれ顔

此外に太祇の「見通しに菊つくりけりな訪はれ顔」の句あり。訪はれ顔といふ語は「宿札にかなつけしたる訪はれ顔」といふ其角の連句に始まりて俳句になりしはこれが始なるべし。三人の内いづれか(*あるいは「が」か。)先づ作りしにや知らず。

蕪村

┏ 三軒家大阪人の蚊遣かな

┃   東山吟歩

几董

┗ 大阪の遊女か知らず櫻狩

蕪村の句は嵯峨をいへるにか。大阪人浮きて利かず。几董の句、東山を前書にて すませたる處狡獪なる手段なり。句柄は几董勝りたり。

蕪村

┏ 裏門の寺に逢著す蓬かな

┃   白馬金鞍入誰家

几董

┗ 菫蹈んで今去る馬の蹄かな

張籍の賈島に逢ふといふ詩「僧房逢著欵冬(*山吹)花、出寺吟行日已斜、十二街中春雪遍、馬蹄今去入誰家」の起句を蕪村は取り、結句を几董は取りたり。几董既に此詩句を借りながら他の詩句を題に置きたるは拙し。蕪村が僧房の句を摘出したるは眼識の高きを知るべく、其蓬を置きたるが如き亦夷の思ふ所に非ず。

┏   加茂の西岸に榻を下して

蕪村

┃ 丈山の口が過ぎたり夕凉

┃   詩仙堂の邊にて時鳥のしきりに鳴きけるにぞ

几董

┗ 時鳥鴨河越えぬ恨かな

共に善き句ならねど几董のは餘りに平凡なり。

蕪村

┏ 筍や五助畠の麥の中

几董

┗ 茂助田に愛すともなき蓮かな

茂助田は周茂叔(*周敦頤「愛蓮説」)の縁にいひしなり。五助畠といふこといはれありや否や。

蕪村

┏ 橘のかごとがましき袷かな

几董

┗ 橘のかたみの衣に夏書せん

共に橘の香とかけたる詞なり。されど蕪村のは「か」の字善く響きて、几董の「か」は響かず。蓋し蕪村のは自然に出で、几董はことさらに蕪村に摸したるがためなり。句は共に善し。

蕪村

┏ 短夜や毛虫の上に露の玉

几董  (*「朝嵐」か。)

┗ 短夜や蟹の脱(*もぬけ)に朝の風

共に細工に墮ちて品卑し。只毛蟲の露を蟹の殻の風に轉じたる工夫を思へば自ら ほゝゑまるゝ者あり。

蕪村

┏ 斧入れて香に驚くや冬木立

几董  (*蚊遣りに焚く木。榧・杉・松等。榧の名と関わるか。)

┗ 蚊遣木にたま\/沈の匂ひかな

几董のは摸すべし。蕪村のは及ぶべからず。

蕪村

┏ 閑古鳥櫻の枝も蹈んで居る

几董

┗ 合歡の木の其花鳥や閑古鳥

櫻も合歓も手柄なし。

蕪村

┏ 麥秋や遊行の棺通りけり

几董  (*琵琶法師か。)

┗ 麥秋や埃の中を薩摩殿

同じやうな景色ながら餘り似たりとも思はぬは句の面白き故にやあらん。

蕪村

┏ 鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな

几董

┗ 鳥羽殿へ御歌使や夜半の雪

共に妙。これには限らねど蕪村の句は活動し几董の句は沈靜せり。沈靜は工夫すべし。活動は工夫すべからず。

蕪村

┏ 鮓つけてやがていにたる魚屋かな

几董

┗ 疊屋のいなでぞありぬ夕時雨

これにも活動と沈靜との差あり。

蕪村

┏ 葱買ふて枯木の中を歸りけり

几董

┗ 寒き野を都に入るや葱(*ねぶか)賣

此二句趣向に動靜の差は無けれど句法に動靜の別あり。「けり」と「や」の區別を知るべし。

蕪村

┏ 我をいとふ隣家寒夜に鍋を鳴らす

几董

┗ さかしらいふ隣も遠く冬籠

一動一靜明々瞭々。

蕪村

┏ から鮏や琴に斧うつ響あり

几董  (*原文「雁かねも」。「夕暮〔ゆふべ〕」か。)

┗ 雁がねも春の夕暮となりにけり

右二句共に素堂の調に倣ふと題せる者なり。蕪村のは素堂の調に似て素堂より面白し。素堂の作いかでか此趣味あるを得ん。几董のは其調の素堂に似ざるのみならず、且つ自家の本領を失ひて其句見るに足らず。几董の才能は終に多岐なる能はず。

┏   几董判句合

蕪村  (*鯨波の意味を込めるか。)

┃ 鯨賣市に刀を鼓[ナラ]しけり

┃   蕪叟判句合

几董

┗ 後シテの面や月の痩男

あてこみ(*受けを狙った際物)の作なるべし。鯨賣の句はたしかに几董の壺に入りたり(*壺にはまる・図に当たる)とおぼし。後の月の句惡句にはあらねど格の卑しきは飽かぬ心地す。但し几董が後の月(*十三夜の月〔秋〕)といふ難 題を課せられたるものとすれば彼が此句ある(*、)怪むに足らざるなり。

蕪村

┏ 立去事一里眉毛に秋の峰寒し

几董

┗ 蟲ノ聲非レ一ニ大とのあぶら白き迄

共に長句法を用う。几董の句勝りたり。

中七に五字の名詞を用うるもの(*、)蕪村にも「山祭りせん」「忘れ花あり」の如き無きにあらねど(*、)几董の

几董

旅涼し裏表無き夏衣

等閑に杜若咲く古江かな

同   (*原文「かけにして」)

かげにして蕃椒喰ふ涙かな

の如きは稍趣を異にせり。中七に六字の名詞を用うる者(*、)几董にもあれど蕪村のは更に多し。終五を六字にする者(*、)几董には一二句あるのみ、蕪村には十句以上あり。蕪村には長句あれど几董には十九字以上の句甚だ少し。蕪村に

蕪村

玉川に高野の花や流れ去る

櫻狩美人の腹や減却す

の如きはあれど

几董

たれこめて祭見る家や薰(*たきもの)す

の「や」は趣を異にす。此等は些細の相違なれども、蕪村の句に活動多く、几董の句に曲折多きは主として此句法の相違より來ることを忘るべからず。

上に擧げ來りたる幾多の句は多少摸倣の痕跡を露したる者なれども、さりとていづれも剽竊として擯斥すべきに非ず、却て其工夫を見るに便多きを以て特に兩々對照したるのみ。几董の佳句が此等の外に存在することは前にいへるが如し。此數十句を以て几董を盡す者と誤解するなからんことを希望す。

俳人蕪村附録 終