Carl Hansen & Son
クラフトマンシップと効率的な家具生産を両立したファニチャーファクトリー
Carl Hansen & Son(カール・ハンセン&サン)は1908年にカール・ハンセンにより創業したファニチャーファクトリーです。主にハンス・ウェグナーの家具を製造し、現在でも高い人気を誇ります。
創業者のカール・ハンセンや二代目のホルガー・ハンセンも家具職人でしたが、手仕事のみの生産には限界を感じ「機械を使用することで一般の人々が購入することができる良質な量産家具を生産する」という理念をもって、伝統的な職人芸に根差した高い量産家具の製造を行いました。
1949年にウェグナーのデザインした家具の製造をはじめたことが大きな転機となります。その年にデザインされたCH24(Yチェア)は現在でもカールハンセンの売り上げの半分以上を占めるほどの人気作品となりました。1951年に5社からなるウェグナーの家具を製造する団体「サレスコ」のリーダーとして活動を行い、さらに企業規模を拡大していきます。
ホルガーハンセンの死やデンマーク家具の人気の衰え、サレスコの分裂など企業としての存続が危ぶまれる出来事もありましたが、現在では3代目のKund Erik Hansen(クヌッド・エリック・ハンセン)により、最新の機械の導入による効率化やウェグナーデザインの復刻生産を行い、さらに発展を続けています。
Year :1908-
President : Carl Hansen(カール・ハンセン)-Holger Hansen(ホルガー・ハンセン)-Jul Nygaard(ユール・ニューゴード)/ Ella Hansem(エラ・ハンセン) -Jorgen Geana Hansen(ヨルゲン・ゲアナ・ハンセン) -Kund Erik Hansen(クヌッド・エリック・ハンセン)
Place:Odense(オーデンセ)
1908:カール・ハンセンによりオーデンセにて創業する。
1911:次男ホルガー誕生するが、階下に住む肉屋に養子を持ち掛けるほど経営は芳しくなかった。
1914:第一次世界大戦の特需により、工房が軌道に乗り機械を導入し新しい工場を設立。量産家具の生産に踏み切り、現在のような分業化を進める。注文家具の製造はやめて、寝室家具の製作に専念する。
1924:Dansk mobelfabrikers Salfsudstilling(デンマーク家具メーカー展示販売会)に出展。これは家具メーカーが販売店や職人に質の高さを見せる展示会であった。この時よりAndreas Tuck(アンドレアス・ツック)との協力関係が始まる。
1927:Fredericias Kobestaevne(フレデリシア見本市)に出展。1927年は機械生産ではなく手作業が重視されたコペンハーゲン家具職人ギルド展が始まった年でもある。フレデリシア見本市は「機械を使用することで一般の人々が購入することができる良質な量産家具を生産する」という野心を実現できる展示会であった。
1934:世界恐慌の影響で景気が悪化。カールが心臓発作で倒れたこともあり、次男のホルガーが経営に加わる。スウェーデンへの輸出やミシンケースの大量受注により業績を復活する。
1939年:第二次世界大戦が勃発。家具業界ではドイツ用の安物家具の需要が高まるが、質の高い家具を求めFrits Henningsen(フリッツ・へニングセン)にデザインの提供を求める。1940年初頭に生産が開始されたCH18は定番商品となり、2003年まで生産がされた。
1943:ホルガーが共同経営者となり、社名が「Carl Hansen & Son(カール・ハンセン&サン)」となる。
1945:戦中にドイツ向けの家具を生産しなかったことで終戦後にデンマーク政府から学校を始めとする公共プロジェクトの依頼が殺到する。多くの受注の中、カールハンセンが優位に立っていたのは安価なコントラクト用の製造ではなく、質の高い家具であることを再認識する。
1946:家具販売店にコンタクトをとる会員誌「モーベルハンラー」に広告の掲載をはじめる。アンドレアス・タックとともにフリッツへニングセンを介して知り合ったEjvind Kold Christensen(アイヴィン・コル・クリステンセン)を営業として雇用する。
1948:ホルガーがデンマーク家具メーカー商工会の会員誌「Mobelfabrikanten(モーベルファブリカンテン)」に輸出されたデンマーク家具の品質の低さを批判する記事を投稿する。これはFritz Hansen(フリッツハンセン)、FDB(エフディービー)、Soborg Mobler(スボーモブラー)により組織されたPortex(ポーテックス)に対する批判でもあった。
1949:コルはコペンハーゲン家具職人ギルド展や一般消費者の動向から、思い切った方向転換が必要であると考えていた。そしてHans J,Wegner(ハンス・ウェグナー)の民主的なデザインと出会い、生産すべき家具の方向性が決まった。それは「デザインと品質から消費者が選ぶ、リーズナブルな価格帯の家具」というものであった。このプロジェクトにはアンドレアス・タックも加わった。ウェグナーは4点のテーブルをアンドレアス・タックにデザインし、カールハンセンにチェアを4点(CH22・CH23・CH25・CH27)とサイドボード(CH304)を1点デザインした。デザインした家具が量産化されたことは、ウェグナーにとって商業的な成功を収めることになった。これまでの営業方法も転換した。今までは家具販売店が営業先であったが消費者に直接営業広告をする手法を取り入れ、一般消費者に向けた宣伝に大きな予算が組まれた。結果としては大成功を収めるが、当時としては斬新な手法で業界団体に背を向ける行為であった。
1950:アメリカのインテリア誌「Interiors Magazine(インテリアーズ・マガジン)」がウェグナーのザチェアを掲載したことで、ウェグナーデザインがアメリカの家具販売店に広く知られることになる。さらにウェグナーがFrederik Lunning-peisen(フレデリック・ルニング賞)を受賞することにより引き合いが増加する。
1951:RY mobler(ロユ・モブラー)、AP Stolen(アンカー・ペーターセン)、GETAMA(ゲタマ)もウェグナーのデザインする量産家具の生産に着手し、Salesco(サレスコ)として共同の営業活動を行う。それぞれのメーカーはサイドボードやソファなど得意分野が分かれていた。これによりインテリアに統一感をもたらすことができ、相乗効果を発揮することができた。この年ミラノ・トリエンナーレでCH24が受賞し、ウェグナーの人気がさらに高まる。
1953:コルがフリーの販売エージェントとして独立する。
1955:コルがポールケアホルムのデザインした家具を販売するためにEKCを立ち上げる。サレスコはコルとの契約を解約する。Poul Norreklit(ポール・ノアクリット)を新しいエージェントとして雇用する。
1957:サレスコが株式会社化される。
1958:50周年を迎える。従業員は70名以上にもなり、デンマークでも有数の大家具メーカーとなった。サレスコがケルン家具見本市に出展する。
1959:創業者のカールハンセンが他界する。ホルガーは家具メーカー商工会の会長とデンマーク家具メーカー品質管理の会長に就任する。
1961:売れる見込みのないCH34・CH35用にチーク材を大量に輸入したことで経済的に苦しくなる。ホルガーが心臓発作で他界する。
1962:妻のエラ・ハンセンが会社は続けていくことを選択し、株式会社化する。自身は取締役に就任し、社長に経理担当だったJul Nygaard(ユール・ニューゴード)を就任させる。ニューゴードの経費削減による財政改善により、ホルガーを失いながらも黒字化を果たす。
1966:ケルン家具見本市でフィンランドやイタリアのデザインが注目され、デンマーク家具が時代遅れのものとなっていく。
1968:サレスコの家具の独占販売権を持ったアメリカ企業であるジョージ・ジェンセンIncがニューヨークに多額の資金を投じてショールームを新設するも、わずか三か月で継続が困難となった。ニューヨークの高額な人件費や家賃を支払うため、デンマーク国内価格の3~4倍の価格設定をしたためともいわれている
。この出来事はデンマーク家具の人気の衰えを感じさせた。これによりアメリカでの販売流通経路を失ってしまう。
またコルやホルガーのようなリーダシップをとる人物がいなくなったことで、サレスコは結束力を失っていった。そしてゲタマがサレスコから脱退し、サレスコの規模が縮小する。ゲタマはサレスコの社長であったヨルゲン・ホイヤーを引き抜いてしまったため、フォス・ペーターセンが新たにサレスコの社長に就任する。フォスは「ウェグナーのやり方に口をだすな」とういう暗黙の了解を犯してしまい、ウェグナーとの協力関係がなくなってしまう。ウェグナーはすでに生産されていた家具の継続は許可したものの、新しいデザインが提供をされることはなくなった。
1969:プラスチックやグラスファイバーを使用した斬新な家具に注目され、木材で製造される家具は時代に合わないという意識が高まっていった。生涯使用する家具でなく、使い捨ての家具が注目されたことも売り上げ低迷の原因となった。
1972:サレスコの不振によりアンドレアス・ツックが倒産する。テーブルメーカーの倒産はカールハンセンにとっても痛手であった。
1974:APストーレンが倒産することでサレスコは事実上閉鎖となった。新たにSoren Willadsen(ソーレンヴィラセン)がパートナーとなり、「CH-RY-SW 有限会社」として継続をしていった。
1988:ニューゴードがなくなり、ホルガーの長男であるヨルゲン・ゲアナ・ハンセンが社長に就任する。
1991:日本に子会社「ディーサイン」を設立する。
1992:ウェグナーデザイン事務所との新しい関係がはじまる。
1996:ヨハネスハンセンの為にデザインを提供したスリーレッグドチェア(CH07)の生産を開始する。
2002:ホルガーの次男であるクヌッド・エリック・ハンセンが社長に就任する。生産性を伸ばすために多額の投資が行われ、オーデンセの工場からオーロップの工場へ移転が行われた。新しいNC機器が導入され、生産性は2002年時の約3倍となった。欧州、北米に販売エージェントのネットワークを作り売り上げを伸ばしていく。ウェグナーの古いデザインの復刻にも力を入れた。
2011:デンマーク最古の家具工房であるRud. Rasmussen(ルド・ラスムスセン)を買収。
2012:PJ furniture(P.J ファニチャー)を買収。
1949:CH22・CH23・CH25・CH27・CH304
1950:CH28・CH29
1959:CH34・CH35
1962:CH36・CH37・CH39
1949〜1970年代
1960~70年代
1980~90年代
2000年代