古庭に鶯啼きぬ日もすがら
http://urawa0328.babymilk.jp/haijin/buson/syoufukuji.html 【古庭に鶯啼きぬ日もすがら】より
宇都宮仲町に生福寺という寺がある。
宮應山生福寺
関東八十八ヵ所霊場第24番。
真言宗智山派の寺である。
生福寺に与謝蕪村の句碑があった。
古庭に鶯啼きぬ日もすがら
蕪村号最初の句だそうだ。
蕪村句碑の記
俳聖与謝蕪村は享保元年(1716年)に摂津国毛馬村(大阪市都島区毛馬町)に生まれた。後年江戸へ出て、烏山出身の俳諧師早野巴人(夜半亭宋阿)の門人となる。巴人没後、同門の砂岡雁宕(いさおかがんとう)を頼って結城に下り、以後約10年に亙って結城を中心に関東・奥羽一円を遍歴した。
寛保3年(1743年)、雁宕の娘で当時宇都宮の寺町(現・仲町)に居を構えていたといわれる佐藤露鳩の許を訪れて滞在し、翌寛保4年に、ここで初めて『歳旦帖』を編集発行した。『歳旦帖』の発行ということは、俳諧師として自立したことを表し、蕪村はこれによって生涯俳諧師として生きて行くことを示したのである。
この『歳旦帖』は、正式には「寛保四甲子歳旦歳暮吟追加春興句野州宇都宮渓霜蕪村輯」と表題したもので、普通『宇都宮歳旦帖』と呼ばれている。
この中に蕪村は、この碑にあるように
古庭に鶯啼きぬ日もすがら 蕪村
と詠み、それまでの俳号「宰鳥」を捨てて、新たに「蕪村」と名乗った。つまりこの宇都宮は、蕪村号誕生の地となったのである。さらにこの「古庭に」の句は、芭蕉の「古池や」の句に対抗しての、蕪村独立を宣言するという意味もあり、当地は蕪村にとって極めて記念すべき所となった。
ウィキペディアより 蕪村
摂津国東成郡毛馬村(けまむら)(大阪市都島区毛馬町)に生まれた。だがそれ以上の詳しいことはわかっていない。 20歳の頃、江戸に下り、早野巴人(はやの はじん〔夜半亭宋阿(やはんてい そうあ)〕)に師事し俳諧を学ぶ。日本橋石町「時の鐘」辺の師の寓居に住まいした。このときは宰鳥と号していた。俳諧の祖・松永貞徳から始まり、俳句を作ることへの強い憧れを見る。しかし江戸の俳壇は低俗化していた。 寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、敬い慕う松尾芭蕉の行脚生活に憧れてその足跡を辿り、僧の姿に身を変えて東北地方を周遊した。絵を宿代の代わりに置いて旅をする。それは、40歳を超えて花開く蕪村の修行時代だった。その際の手記で寛保4年(1744年)に雁宕の娘婿で下野国宇都宮(栃木県宇都宮市)の佐藤露鳩(さとう ろきゅう)宅に居寓した際に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で初めて蕪村を号した。 その後、丹後を歴遊し42歳の頃京都に居を構えた。この頃与謝を名乗るようになる。母親が丹後与謝の出身だから名乗ったという説もあるが定かではない。45歳頃に結婚し一人娘くのを儲けた。51歳には妻子を京都に残して讃岐に赴き、多くの作品を手掛ける[1]。再び京都に戻った後、島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には夜半亭二世に推戴されている。 京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明68歳の生涯を閉じた。死因は従来、重症下痢症と診られていたが、最近の調査で心筋梗塞であったとされている[2]。辞世の句は「しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけり」。墓所は京都市左京区一乗寺の金福寺(こんぷくじ)。