蓮の花言葉の意味|仏教との関連
http://buddhism-lifehack.com/hasu-lotus-nelumbonucifera 【蓮の花言葉の意味|仏教との関連】 より
夏の花で、7月から8月が見頃の花であり、更に仏教ゆかりの花と言えば、蓮の花ですね。
近所にある教王護国寺(東寺)や、私もちょくちょく顔を出させて頂いている真宗本廟(東本願寺)も、季節になれば蓮の花が咲いております。
蓮と言えば、最近でしたら蓮佛美沙子さんを連想する人も多そうですが、7月の花としての蓮を愛でるのも、風流ではないかと思うところであります。
仏教とご縁が深い蓮の花で御座いますが、蓮の花言葉の意味、その意味を仏教的に捉えお伝えしていきます。
蓮の花言葉は「雄弁」その意味を仏教的に考えて観る
蓮の花言葉の一つに、
:雄弁(ゆうべん)
があります。
雄弁とは「説得力のあり力強く話すこと」というのが、国語辞典的な意味です。
雄弁という言葉の意味には「弁が立つ」という意味も含まれているような気がします。
他にも、極楽浄土へ往生した際に生まれる場所が蓮の花とされているという意味からか「神聖」という花言葉もあります。
また「清らかな心」も蓮の花言葉であり、蓮には清らかなイメージが持たれています。
大乗仏教経典の「維摩経(ゆいまきょう)」には、
:譬如高原陸地不生蓮華。卑濕淤泥乃生此華。
(意味は「高原の陸地には蓮花は生えない。汚泥の中からこそ蓮花は咲く。」)
とあります。
泥の中から咲く蓮の花は、泥の中にありながら清く美しく咲く、ということですね。
この辺りから、「清らかな心」「神聖」という意味が付随したのかな、と、蓮の花言葉の由来を思うたりしております。
そう思うと、本当に仏教縁の花だなあ、と感じるところであります。
さて、蓮の花言葉である「雄弁」ですが、仏教、特に禅・禅語を学んでいる人ならば、「蓮の花言葉で雄弁とはこれいかに」と思われる人もいらっしゃるのではないかと思うのです。
その理由の一つに、有名な言葉に「雄弁は銀、沈黙は金」という言葉がありますが、この言葉を連想する禅語とまつわる話があります。
あなたは
:拈華微笑(ねんげみしょう)
という禅語をご存じでしょうか。
この話の内容は、こんな感じです。
お釈迦様が霊鷲山というところで説法中、蓮の花をつまんで高くかざされます。
そうすると、説法を聞きに来ていた衆生は、なんのこっちゃという感じで沈黙しておりました。
そんな中、摩訶迦葉(まかかしょう)というお弟子さんだけが、只一人にっこり微笑んだのです。
そこで、「不立文字、教外別伝、摩訶迦葉に付嘱す」とお釈迦様が仰り、仏法を摩訶迦葉に伝承した、というのが、この「拈華微笑」の禅語にまつわるエピソードです。
ちなみに、この「拈華微笑」の話には、「正法眼蔵」「不立文字、教外別伝」「実相無相」といった仏教の言葉も出てきまして、仏教用語・禅語も複数同時に学べる話です。
「拈華微笑」は、文字や言葉と言った言語では伝えきれない事や、以心伝心を伝え教えている禅語です。
蓮の花が登場するこの禅語の話から、蓮の花言葉と花の意味が「雄弁」とはこれいかに、と思うこともあります。
だって、一言も発さず、蓮の花をかかげて、それに対して微笑んで、以心伝心がなされたという話ですからね。
もしかしたら「沈黙は時に雄弁よりも伝わる」というのが、蓮の花言葉である「雄弁」の意味なのかもしれません。
先ほど紹介致しました「維摩経」では、
「維摩の一黙、雷の如し」
という言葉もあり、沈黙で語るという話も出て来ます。
「微笑みが雄弁に語っている、ゆえに沈黙は時として雄弁である」という捉え方や解釈も出来ますし、なんとも奥深い。
蓮の花言葉「雄弁」の意味とその解釈は、色々と考えさせて頂ける花言葉です。
蓮の花言葉「雄弁」の意味をもっと仏教的に深掘りしてみる
蓮の花言葉「雄弁」は、国語辞典的な意味や、仏教的な考え方による意味の捉え方をしてみました。
「雄弁は銀、沈黙は金」という言葉は西洋の人が発された言葉ですが、「拈華微笑」の話とも共通する部分が観えます。
卑近な例を挙げると、雄弁に語る営業よりも、沈黙する時間が多い営業担当者の方が、営業成績が良いという話もありますからね。
雄弁さが時として「言葉が過ぎる」という事例もありますし、確かに「沈黙は金」となる場合・ケースもあるでしょう。
ただ、私は「雄弁が沈黙に劣る」とか「ただ、黙っていれば良い」という意味に解釈してしまうのは早計だと思うのです。
このあたり、言語哲学を学んでいる人でしたら、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインという哲学者の、有名な言葉と絡めて考えられるでしょうか。
ウィトゲンシュタインさんは、こう仰っています。
「語りえないことについては、人は沈黙せねばならない」
語り得ぬ事であるのに、べらべらとしゃべっている人にとっては、耳の痛い格言です。
聞かれてもいないのに、プロフィールを自慢で飾り立てたり、生徒の実績自慢をしているコンサルタントを自称する似非コンサルタントなる我利我利亡者や餓鬼共は、戒めとして毎日音読すべき格言でありましょう。
ただ、「雄弁が沈黙に劣る」と、この言葉からも解釈出来そうですが、それとはまた違うであろう、と私は頂いております。
これは、言葉を大切にしているからこそであったり、言葉では語り尽くせない、言語化すると必ずどこかで言い損なう、という気づきと共に、それでも語らねば伝わらないもどかしさを考えると、見えてくることが御座います。
仏教では、以心伝心の大切さや、言葉で伝えきれない事があると言う事を教えてくれています。
言語による分別なり境界線を引くことを戒める教えが、特に禅では観られますし、瞑想や坐禅などからも窺える教えなり世界観が読み取れます。
ここで注意したいのは、これはただ黙っていれば良い、とか、言語を疎かにしているという事ではない、ということです。
浄土宗のお坊さん、井上広法さんは「ぶっちゃけ寺」で、
「仏教は言語も大切にしている、御経や経典が多いことからも窺える」
という話を、伊勢神宮の回で仰っていました。
仏教は言語で伝える事や、言葉を尽くそうとする事を大切にしている事は、私も日々感じております。
教えを言語化したり伝えるために言語に挑戦し続けて、その上で、どうしても伝えきれない事がある、それが伝わるのが「以心伝心」や「不立文字、教外別伝」だと、私は思うのです。
決して言語化・言語への挑戦を疎かにしたり、言葉を軽んじているわけではない、そのように「拈華微笑」という禅語と、蓮の花言葉「雄弁」の意味を頂いております。
個々の感覚や個別的・絶対的な部分伝えるため、言語で伝える事に力を尽くすけれども、言葉では伝わらないことも察しておくこと、蓮の花言葉「雄弁」から、そのような意味を私は見出しております。
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蓮の花に関する仏教の言葉(仏教用語)を少しだけ紹介
蓮の花言葉「雄弁」の意味について、なんだかまとまりのない話になってしまいました。
最後に、蓮の花に関連した仏教の言葉、仏教用語やまつわる話を少しお話しして、締めくくらせて頂きます。
あなたは「一蓮托生(いちれんたくしょう)」という言葉と、その意味をご存じでしょうか?
参照:「一蓮托生の意味と使い方」
「一蓮托生」というと、現代ではあまり良い意味に使われていない印象があります。
例えば、仕事でヘマをやらかして、上司に怒られることが確定した場合、同僚から
「ここまできたら一蓮托生だ、俺もお前と一緒に上司に怒られてやるよ。」
と、言われるようなときに使われますね。
一蓮托生は、なんだか良からぬ事に巻き込まれるような、そんな印象がある言葉として使われるようになりました。
「一蓮托生」の意味は、
:極楽浄土に往生した時、同じ蓮の花の上に生まれること
です。
本来の仏教語・仏教用語としての「一蓮托生」が、あまりよろしい印象を持てない現代の意味へ変遷していったのか。
臨済宗の僧侶で作家の玄侑宗久さんの本では「一蓮托生」のさすらいについて言及されていますから、興味がある方は読まれると良いでしょう。
「さすらいの仏教語」という本です。
また、浄土三部経の一つ「仏説阿弥陀経」には、4色の蓮の華が出て来ます。
赤蓮華・青蓮華・黄蓮華・白蓮華と、何とも色鮮やかな光景が目に浮かんでくるものです。
その他、仏教と蓮を見渡してみると、日蓮聖人は名前に蓮の華をお持ちですし、日蓮宗と言えば「南無妙法蓮華経」ですが、そこにも「蓮華」がありますね。
蓮の花言葉とその意味始まり、蓮の華を辿る仏教の旅をしてみるのも、風流な夏の旅、7月の旅ではないでしょうか。
京都には、蓮の華が7月に見頃を迎えるお寺もありますから、脚で蓮の花を巡る旅というのも、また夏の風流だと思うております。