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佛典・法句經(ダマパンダ)・荻原雲來譯/第二十五比丘の部、第二十六婆羅門の部

2020.08.08 23:41


法句經

荻原雲來譯註



   第二十五 ‘比丘の部

    [原註、比丘——出家したる佛の弟子。

三六〇、眼を護るは善し、耳を護るは善し、鼻を護るは善し、舌を護るは善し、

三六一、身を護るは善し、語を護るは善し、意を護るは善し、總てを護るは善し。

三六二、手を制し、足を制し、語を制し、最も善く制し、‘内を悅び、定に住し、獨處して滿足する人を比丘と謂ふ。

    [原註、内を悅ぶ——修定を樂ぶを云ふ。

三六三、比丘若し口を制し、說く所賢善にして、寂靜に、義と法とを示さば其言甘美なり。

三六四、比丘あり、法に住し、法を好み、法を隨思し、法を隨念すれば、法を退することなし。

三六五、己の所得に不足を懷く可らず、他を羨まざれ、他を羨む比丘は心の安定を得じ。

三六六、比丘あり、己の所得少なきも其の所得に於て不足を懷かざれば諸神尚ほ此の淨命無懈怠の者を讚す。

三六七、あらゆる事物に於て所有の想なく、(其物)滅盡に於て憂惱せざる人こそ眞の比丘と謂はる。

三六八、何時も慈心ありて佛敎を信ずる比丘は、變化止息し寂靜安樂なる處に到るべし。

三六九、比丘よ、此の‘舟を‘戽[汲]め、‘水出でなば容易に行かん、貪と瞋とを斷たば汝は涅槃に到らん。

    [原訓、戽む、くむ

    [原註、舟——我性に喩ふ。

    [原註、水——邪思惟に喩ふ。

三七〇、‘五を斷ち、五を捨て、また五を勤修せよ、五著を超えたる比丘は已度暴流者と謂はる。

    [原註、初の「五」は有身見、疑、戒禁取、欲貪、瞋恚

       [此]の五は欲界卽ち感覺の旺盛なる下界を順益する結なれば五順下分結と云ふ、

       次の「五」は色貪、無色貪、掉擧、慢、無明

       [〃]の五は色と無色との界卽ち上界を順益する結なれば五順上分結と名づく、

       次の「五」は信、勤、念、定、慧

       [〃]の五は善法の生ずる根本なれば五根と名づく、

       後の「五」は、貪、瞋、癡、慢、見の五にして能く執著するものなれば五著と名づく。

三七一、比丘よ、靜慮せよ、放逸なる勿れ、汝の心を妙欲に住とどめざれ、放逸にして(熱)鐵丸を呑む勿れ、燒かるゝ時に至りて、是苦なりと叫ぶ勿れ。

三七二、慧なき人に靜慮なし、靜慮せざる人に慧なし、靜慮と慧とある人は已に涅槃に近づけり。

三七三、‘空屋に入り心寂靜なる比丘は、正しく法を觀じて人中に無き樂を享く。

    [原註、空屋に入り云々——或る靜處に於て業處(入定の豫備位)より進んで定を得て其の作意を以て坐する時を指す。

三七四、人苟も‘蘊の生滅を思惟することあらば‘不死を證得せし人の喜樂を得ん。

    [原註、蘊——因緣力に由つて積集せるもの。

    [原註、不死——涅槃。

三七五、現世に於ける聰慧ある比丘の初とは‘謂く、感官を護り、滿足し、道德の規律を擁護し、生活正しく、善友を侶とするにあり。

    [原訓、謂く、いはく

三七六、‘施與を常とし、所行に於て善巧に、是に由て悅豫多く、苦を盡す。

    [原註、施與を常とし——財法二施を怠らざるを云ふ。

三七七、‘衞師迦が萎める華を振ふが如く是の如く諸の比丘は貪と瞋とを離れよ。

    [原註、衞師迦——素馨屬の植物の名。

三七八、身寂、語寂、寂にして能く定を得、已に世の財利を吐きたる比丘は寂靜者と謂はる。

三七九、自ら誡しめ、己を檢し、熟慮し、己を護る比丘は安樂に住せん。

三八〇、己を以て主とし、己を以て歸とす、故に己を制せよ、商侶が良馬を(制する)如く。

三八一、喜悅多く佛敎に淨信ある比丘は變化の止息せる寂靜の樂處に到るべし。

三八二、比丘あり年少なりと雖も佛法に於て精勤なれば、彼は此の世を照らす、雲を出たる月の如し。



   第二十六 ‘婆羅門の部

    [原註、婆羅門——婆羅門は古代印度にて社會の第一位に居り、宗敎、哲學等の指導者として崇められ、

        社會中の最も偉き人、神に近き人と認められたり、

        佛敎にては此語は罪惡を排除せる義と解し阿羅漢と云ふと同じ義とし、往々にして佛陀と同義に用ゐらる。

三八三、勇敢に‘流を截れ、欲を除け、‘婆羅門よ、變化の滅盡を知り了りて汝は‘無作を知る、婆羅門よ。

    [原註、流——渇愛を喩ふ。

    [原註、婆羅門——漏盡者(けがれなきひと)を指す、但しこの頌文は因に果名を與へたるなり。

    [原註、無作——涅槃。

三八四、婆羅門あり、若し‘二法の‘彼岸に達しぬれば此の智者の一切の繋縛は滅盡す。

    [原註、二法——靜止と觀察とを云ふ。

    [原註、彼岸——完全の域。

三八五、彼岸も非彼岸も彼岸非彼岸もなき無畏無繋縛の人を我は婆羅門と謂ふ。

三八六、靜慮し、離貪し、堅住し、已に所作を作し、心の穢なく、最上義を獲得せる人を我は婆羅門と謂ふ。

三八七、日は晝に照り、月は夜を照らし、兵は甲を‘擐[貫]して照り、婆羅門は靜慮して照り、佛は威光を以て一切迷妄の闇を照らす。

    [註、 擐字、訓かん乃至つらぬく。字義貫く、刺す

三八八、諸惡を去るが故に婆羅門なり、寂靜行のゆゑに沙門と謂はる、己の垢を除遣せるが故に出家と謂はる。

    [原註、文中「去る」「寂靜」「除遣」は次の如く婆羅門、沙門、出家と音相似たるを以て斯く言へり。

三八九、婆羅門を打たざれ、(打たれたる)婆羅門は(打ちたる人に)向はざれ、いかで婆羅門を打たんや、況やいかで(打ちたる)人に向はんや。

三九〇、‘所愛に對して心を抑止するは是れ婆羅門の少なからざる勝事なり、傷害の意輟むに應じてそれだけの苦卽ち滅す。

    [原註、所愛に對して云々——父母佛陀等の所愛に對して忿の心を抑止するなり。

三九一、身と語と意にて惡を造らずして(此の)三處を護る人を我は婆羅門と謂ふ。

三九二、若し正等覺者所說の法を說示するものあらば、人は彼を恭しく禮すべし、婆羅門が火天を(禮するが)如くに。

三九三、婆羅門は‘結髮に由るに非ず、族に由るに非ず、姓に由るに非ず、若し實と法とを有すれば彼は淨婆羅門なり。

    [原註、結髮——印度に行はれる苦行者の一種。

三九四、癡人よ、結髮汝に何かあらん、‘鹿皮衣汝に何かあらん、汝内に‘稠林あり(て)外を飾る。

    [原註、鹿皮衣——印度苦行者の被るもの。

    [原註、稠林——邪見を稠林に喩ふ。

    [註、 稠林、訓ちゅうりん。字義生い茂った林、語義煩悩が繁茂す

三九五、糞掃衣を被、羸痩し、筋脈露顯し、獨り林中に處して靜慮する人を我は婆羅門と謂ふ。

三九六、姓に由り、母の族に由り、我は婆羅門と謂はず、彼は貴族と稱すべし、彼は實に富者なり、無所有無取なる人を我は婆羅門と謂ふ。

三九七、人あり一切の結を斷ち、決して‘憂慼せず、‘著を去り繋を離れたるを我は婆羅門と謂ふ。

    [註、 憂慼、ゆうせき、心愁い心煩う

    [原訓、著、ぢやく

三九八、‘紐と、‘帶と、‘繩と其の附屬とを斷ち、‘障壁を毀ち、‘覺悟せる人を我は婆羅門と謂ふ。

    [原註、紐——結ぶ性ある忿に喩ふ。

    [原註、帶——縛る性ある愛に喩ふ。

    [原註、繩と其の附屬——六十二の謬れる見識に喩ふ。

    [原註、障壁——無明に喩ふ。

    [原註、覺悟——四諦の理を悟るを云ふ。

三九九、惡を作さざるに、罵詈、打擲、又は繋縛を忍受し、忍力を具し、其力にて能く耐ゆる人を我は婆羅門と謂ふ。

四〇〇、忿なく、‘禁を守り、‘戒を持し、‘欲なく、‘調御して‘最後身なる人を我は婆羅門と謂ふ。

    [原註、禁——頭陀卽ち少欲知足の人の行儀。

    [原註、戒——四淸淨戒(別解脫律儀、身と語との不善を作さざるを誓ふこと、

        根律儀、感覺を制御すること、正命清淨律儀、

        生活法を節制すること、

        依縁律儀、生活需要品を節制すること)

    [原註、欲——渇愛。

    [原註、調御——六根を制御すること。[註、六根、眼・耳・鼻・舌・身・意

    [原註、最後身——次後の生存を受くべき煩惱無きこと。

四〇一、‘藕葉の上の水の如く、‘針端の芥子の如く、欲に染らざる人を我は婆羅門と謂ふ。

    [原訓、藕葉、はすは

    [原註、藕葉の上の水——染らざるに喩ふ。

    [原註、針端の芥子——住著(ぢやく)せざるに喩ふ。

四〇二、人あり現世に於てすら己の苦の盡を遍知し、重擔を下し、繋を離るれば、我は彼を婆羅門と謂ふ。

四〇三、甚深の慧を具し、聰明に、道非道に通達し、‘最上義を得たる人を我は婆羅門と謂ふ。

    [原註、最上義——阿羅漢性を云ふ。

四〇四、在家も無家も‘兩ながら交らず、定住處なく、少欲なる人を我は婆羅門と謂ふ。

    [原訓、兩、ふたつ

四〇五、若し人群生の弱きと強きとに拘らず其の中に居て刀杖を捨て(自ら)殺さず、又他をして殺さしめざれば、彼を我は婆羅門と謂ふ。

四〇六、爭の中に處して爭はず、暴き中に處して慍らず、‘有取の中に處して無取なる人を我は婆羅門と謂ふ。

    [原註、有取——精神と肉體とに於て自我を認むるを云ふ。

四〇七、若し人あり貪と瞋と慢と‘覆を離るゝこと芥子が針端より(落つるが如くなるときは)、彼を我は婆羅門と謂ふ。

    [原訓、覆、ふ

    [原註、覆(ふ)——他人の善や、自分の不善を隱覆すること。

四〇八、麤ならざる敎訓する實語を發し、其の語に由りて誰をも怒らさざる人を我は婆羅門と謂ふ。

四〇九、人若し此の世に於て或は短、或は長、麤細、淨不淨(を問はず)、與へられざる物を取らざれば、彼を我は婆羅門と謂ふ。

四一〇、人若し今世又は後世を希はず、希望なく、束縛を離るれば、彼を我は婆羅門と謂ふ。

四一一、人若し愛著なく、(諦理を)知つて疑なく、‘甘露の源底に達すれば、彼を我は婆羅門と謂ふ。

    [原註、甘露——涅槃を云ふ。

四一二、人若し此の世に於て福と罪と‘兩ながら執するを息め、憂なく、貪を離れ、淸淨なれば彼を我は婆羅門と謂ふ。

    [原訓、兩、ふたつ

四一三、月の‘翳り無く、淨く澄み、明なる如く、變化的生存の愛已に盡きたる人を我は婆羅門と謂ふ。

    [原訓、翳り、くもり

四一四、人若し此の‘敵と‘險道と輪廻と癡を越え、已に渡り、彼岸に達し、靜慮し、欲なく、疑なく、所取なく、安穩なれば、彼を我は婆羅門と謂ふ。

    [原註、敵——貪等を指す。

    [原註、險道——煩惱。

四一五、人若し現世に於て諸欲を斷ち、家を捨てて遍歷し、欲の存在を盡せば、彼を我は婆羅門と謂ふ。

四一六、人若し現世に於て愛を斷ち、家を捨てて遍歷し、愛の存在を盡せば、彼を我は婆羅門と謂ふ。

四一七、人の軛を斷ち、‘神の軛を超え、一切軛の束縛を離るれば、彼を我は婆羅門と謂ふ。

    [原註、神の軛——軛は或種の煩惱を云ふ、人や神を役使し自在ならざらしむればなり、

      「神」とは變化的生存者中の一類のものを指す、卽ち人間を超出せるも未だ完全なる状態に至らざる生物のこと。

四一八、‘樂と不‘樂とを捨て、淸涼に、變化的生存の素因なく、一切世間に勝つ勇者を我は婆羅門と謂ふ。

    [原訓、樂、げう

四一九、一切有情の死と又生とを知り、‘著なく、幸にして、覺悟せる人を我は婆羅門と謂ふ。

    [原訓、著、ぢやく

四二〇、心の穢なき阿羅漢の趣きし處は神も‘健闥婆も人も能く知らず、彼を我は婆羅門と謂ふ。

    [原註、健闥婆——鬼神の一種。

四二一、初めにも後にも中にも少しの所有あらず、無所有無取なる彼を我は婆羅門と謂ふ。

四二二、最上勇猛なる牛(王)、大仙、己服者、無欲者、沐浴者、覺悟者を我は婆羅門と謂ふ。

四二三、人あり前世の生存を知り、又神と惡趣とを見、又生の盡を得、神通圓滿せる智者となり、一切圓滿せる圓滿を有する彼を我は婆羅門と謂ふ。


底本奧書云、

昭和十年六月二十五日印刷

昭和十年六月三十日發行

發行所岩波書店