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蕪村の嗜好 ―宰鳥から宰鳥へ―

2020.08.10 12:22

http://www.basho.jp/ronbun/2016/02.html  【蕪村の嗜好 ―宰鳥から宰鳥へ― 】より

<発表のまとめ>

1.発表の概要

・今年は蕪村生誕300年に当たる。蕪村は一般に「蕉風復興期の中心的存在」として知られている。しかし、本発表では蕪村作品の精査によって、芭蕉の作風とは異なる強い嗜好性を読み取り、蕉風復興運動とは別個の生き方を選んだ蕪村像をえぐりだしている。つまり、蕪村は画業を本業として俳壇とは距離をおき、江戸を中心とする関東在住期への回帰を試みる自在奔放な境地に遊んだという。

・なお本発表は、発表者が雑誌『文学』(岩波書店)17巻第2号の特集「蕪村生誕300年」に寄稿した「蕪村の嗜好 ―宰鳥から宰鳥へ―」を元に、「論文を読む会」用に再整理したものである。

2.発表のポイント

◆作品に同居する宰鳥、宰町、蕪村(問題提起=結論)

・蕪村は複数の撰集の中で旧号を復活させ、新旧二つの号を同居させている。この蕪村の嗜好に着目し、その作品を読み解くことで新たな蕪村像に迫る。すなわち、時空を超えて遊びたい処に自由に降り立つ彼の「旧事追懐」こそが、それである。

◆宰鳥との別れ、蕪村の登場(『寛保四年歳旦帖』)

・師である宋阿没後の1年半後、蕪村が初めて編んだ歳旦帖の巻軸(巻末に記す編者の句)で初めて「蕪村」を名乗る。面白いことに軸前の全作品の号は、入門時に宋阿から授かった「宰鳥」である。発表者はこれを「先師の弟子であり続ける宰鳥と、先師亡き旧居で悲しみにくれる蕪村を寓したもの」とみる。

◆蕪村と夜半亭(作品に俳壇的意欲を読まず)

・宝暦元年(1751)蕪村は京に上り、以後の約10年間を画業の修業に当てる。結婚したと思われる宝暦10年には、ひとかどの画家になっていたと思われる。

・明和3年(1766)、蕪村51歳の時に三果社句会を発足させるが、このときは未だ「俳諧は画業の余技」に過ぎず、画業に勤しむ暮らしを徹底する。

・明和7年(1770)、「先師巴人の夜半亭を継承」し、京で俳諧師の再スタートを切る。

・それ以降、弟子几董の『あけ烏』、『続明烏』や道立の『写経社集』などの蕉風復興を意識した作品や、蕪村が編集者と記された『たまも集』、『芭蕉翁付合集』など、後世蕉風中興の書と目される作品集を編むが、いずれの作品集にも蕪村が積極的に関与し指導したという痕跡は見られない。

・また、立机はしたものの積極的な直門拡大の意欲なく、蕪村の回りには相変わらず太祇など旧い知己とわずかな直門がいるばかりであった。

・つまり、蕪村は俳壇と距離をおき「几董や大魯などの門人を世に送り出し、道立や維駒を支援する役割を担い」ながら、自らは「俳諧は画作の傍らで自在な境地に遊ぶ」という暮らしをした

◆宰鳥との再会(旧事追懐)

・さらに時代は下り、安永3年発行の蕪村編『安永3年春帖』・『むかしを今』(宋阿三十三回忌集)には、「蕪村」「宰町」が同居する作品が随所に表れる。すなわち、懐かしい修業時代へ奔放に回帰していることがわかる。

・極め付けは、安永6年春に刊行した『夜半楽』であろう。この集には幼き頃、若き日の頃の思い出を奔放に詠った「春風馬堤曲」三部曲を中心に、もはや俳諧様式を逸脱するような編集を加えている。

3.まとめ

・蕪村は生来画の素質をもち画業で大成する夢を持ち、長じてその夢を達成するが、青年時代の一時期に江戸で絵画より俳諧一筋の生活を送った。そのきっかけは貧しさで途方に暮れる蕪村を温かく迎い入れた俳諧師宋阿の慈愛があると思われる。

・上方に戻り、画業に励み、絵師で生きてゆく見通しが立った時点で、先師の後を継ぎ夜半亭二世を名乗る。しかし画業に時間を取られることが多く、俳諧においては旧事追懐という嗜好に、その道を見出したと思われる。

・その姿勢には俳壇的意欲はなく、俳諧仲間も旧知の知己と決して多くない直門で不足はなかった。ただ自身の先師を敬う心は強く、門人にもその父の追善集を編むことを勧めたようである。その姿勢が逆に門人の自主性を養い、几董や子曳などの俊英を輩出したと思われる。

・以上、蕪村像は巷間言われている蕉風中興の中心的存在などと少し異なり、その俳壇的な仕事の多くは門人の功績によるものだろう。蕪村は師として彼らを応援していたのである。

・また、その作風は都会風であり、晩年に進むにつれて求道者的になる芭蕉とは大きく異なる。むしろ先師巴人が学んだ其角、嵐雪に近かった点は通説の通りである。 

 (了)