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歌ことば研究 ―俳諧における「短夜」の移りかわり―

2020.08.10 12:44

http://www.basho.jp/ronbun/2018/01.html  【 歌ことば研究 ―俳諧における「短夜」の移りかわり―】 より

■はじめに

・ 「短夜」の意味は「短い夏の夜」。これまで人々は「短夜」が含むイメージを踏まえ、限られた季節と時間の中でおのおのが感じ取った何かを込めて作品化してきた。

・ こんにち「短夜」の研究はあまり進んでおらず、どの辞書を読んでも同じ説明が並び、この言葉が持つ風景や感情がすでに決められた印象を受ける。また、現代において「短夜」という言葉自体を知らない人も多い。

・ このように季題が十分研究がされていない分、新たな価値や可能性が各季題に秘められているのではないか。そう考えて今回季題「短夜」を取り上げ掘り下げることにした。

■芭蕉の発句

芭蕉が「夏の夜の短さ」を詠んだ句は七例。

1 蛸壺やはかなき夢を夏の月                (猿蓑・1688年)

・ 前書は「明石夜泊」。「はかなき夢」「夏の月」は和歌で詠まれた「短夜」のイメージに通じる部分。

・ 和歌と違うのは、はかなさをもたらしている要因が男女の別れではなく明石という場所であること。

・ 短夜を照らす夏の月と、明石の地・「はかなき夢」―翌朝には蛸壺を引き上げられると知らずに最後の夢を結んでいる蛸、流謫の地である須磨・明石で京に戻る日を夢見ていた光源氏、一ノ谷の戦いで栄華を夢見た源氏と平氏、はたまた詠者である芭蕉自身―が当該句に関わるすべての人物・生き物・景観・そして読者にひと時の涼しげな情趣をもたらしている。

・ 芭蕉が詠んだ「明易し」の句は次の一例のみ。

2 足洗てつゐ明安き丸寐かな              (芭蕉翁真蹟拾遺・1688年)

・ 「明安き」という短夜における感情が、足を洗ってやっと横になれたのにもう夜が明けてしまったと、作者に驚きとあっという間に終わる休息を与えている。

・ 芭蕉の句の特徴として、「夏の夜の短さ」を詠んだ七例のうち「短夜」の言葉を使用しているのは二例のみ。

>> →短夜を詠むことはあっても「夏の月」の言葉に情景ごと含めてしまっていることから、芭蕉は発句で「短夜」という言葉を使わず夏の夜の短さやその世界を表現しようとしたのではないか。

■蕪村の発句

蕪村が「夏の夜の短さ」を詠んだ句は四十三例あり、そのうち「明易し」の句は五例。

1 みじか夜や地蔵を切て戻りけり             (蕪村句集・1769年)

・ 句意は「夏に化け物を切ったと思ったら、地蔵を切って戻ってしまった短夜であることよ」。

・ 和歌や今までの俳諧で詠まれてこなかったひやひやする(恐ろしい)涼しさ―地蔵を切った「気が気でない」心情―が詠み込まれている。

>> 短夜の景色にお化けを取り合わせたのは蕪村が初めてであり、蕪村の怪異趣味や幻想的な志向がうかがえる。

2 みじか夜に狐のくれし小判かな            (夜半叟句集・1778年以後)

・ 句意は「短夜に狐がくれた小判であることよ」。

・ 狐が(偽物の)小判をくれたという驚きとメルヘンに溢れた可愛らしい出来事を、夢を見たのか見ていないのか分からないほど短い夏の夜と一緒に詠む。

>> 短夜は古歌以来涼しさとはかなさの二つの趣を含む情景なので、狐が小判をくれたことにあっけにとられている句中の人物と短夜の場面が、驚くような光景(体験)と幻のようなはかなさを持つという点で響きあっている。

3 明やすき夜を磯による海月哉             (夜半叟句集・1778年以後)

・ 句意は「明け易い夏の夜を磯に寄って浮いている海月であるよ」。

>> 短夜の明けるさまと、あてもなく漂い続ける海月の姿の二つのはかなさ。

・ 海月は「明やすき夜」の見立てになっており、短夜がとどまることなく移ろうあっけなさや、不安定に動き続け、次第に消えていくはかなさを汲むことができる。

・ 蕪村が詠んだ「短夜」の特徴として、「短夜」の情景が含む涼しげな趣を短夜のもとにある物の色から伝えている。(例「みじか夜や枕に近き銀屏風」)

・ 「短夜」に化け物を取り合わせることで二つの涼しさを詠み込む。

>> 夢のような怪異体験に驚き、恐ろしい思いをする涼しさを「短夜」が含む涼しさと重ねることで、より納涼の趣を強調。

・ 「短夜」を詠んだ句数(四十三例)。

>> これまでの和歌・俳諧の伝統に即して短夜を詠みつつも、新たな趣向(化け物・メルヘン要素)や古典に取材して句にすることで、「短夜」の本意である夏の夜の短さやそれによるはかなさ・つらさを発展的に詠もうと試みたのではないか。

■むすびに

・ 俳諧での「短夜」の詠まれ方について、貞門・談林俳諧では「短夜」と「夏の夜」が並行して使われるが、蕉門の時代以降は「夏の夜」の句が激減。

>> 「短夜」の本情である「夏の夜の短さ」やはかなさを詠むために用いられる。

・ 「月・ほととぎす・夢・(芦・竹の)節の間」といった和歌伝統で詠まれた景物「雲・空」、動物、花(植物)、化け物と取り合わせられる。

・ 掛詞として使われることで、夏の夜と他の事物の二つの短さを示す。(例「郭公待かねぬるや気短夜」)

・ 涼しげで恋の気分を情趣に持つ「短夜」の情景が、人間を急かすあわただしい景物と捉えられるようになる。

・ 「短夜」が与える影響(人間の行動・老い)が笑いとして詠まれるようになり、時代が下るにつれて「短夜」が含む恋の気分が句から薄れていく。(例「夏の夜を長くなす身や年の功」)

・ 夏以外の季節でも作者の「夜は短い」という実感を言う場合に用いられる。

・ 夜明けが早いさまがはかないことから、「短夜」は死による悲しみに沈む場面でも使われ、夏の夜とは反対に悲しみがいつまでも明けないことを表すようになる。

>> この世の無常観へと派生。

・ 和歌では「短夜」がもたらした感情や趣に浸るように動作が完了したところを詠まれてきたが、俳諧では「短夜」の情景にいる人間・動物・植物が句に詠まれた瞬間だけでなく、その前後も動作を継続している様子が詠まれている。

>> 静かな情景から動きのある情景が詠まれることで、「短夜」のイメージが広がった。

・今後は「夏の夜の短さ」を詠んだ近世中期以降の句の傾向を検証し、「短夜」は単なる夏の夜ではなく詠まれた作品の場面によって様々な趣を持つ景物であることを明らかにしていきたい。

以上

<所感>         伊藤無迅

楽しみにしていた本発表が都合で聴けなかったが、発表者のまとめを読み以下のような感慨をもった。

・ 昨年入会した未だ二十代の若い梶原さんが、季題についてここまで深い掘り下げをしたことに正直驚くと共に感激しています。かつ、この発表で会員一同が改めて季題の大切さやその意義を再考する機会を頂いたことに感謝申し上げます。

・ 本発表で私自身が改めて認識を新にしたことは次のとおりです。

◇ 世界最短の詩形である俳句は17音という厳しい表現上の制約がある。しかし季題のもつ本意、本情を活かすことで大きな表現力を得ることができる。

◇ 季題の本意、本情は古典を読むことで体得できる。

◇ 季題は日本の風土で練り上げられた日本人共通のタームである。

◇ したがって季題を詠みこむことは日本文化に触れることと同義である。

◇  さらに俳句を詠み続けることは日本文化を継承する行為そのものである。

 振り返って日常の俳句活動や句会を考えると以下の事に気付かされる。

・ 句会などで季題本意を捉えている人と、そうでない人では、俳句の作り方や鑑賞が自ずと異なるのではないか。同じ季題の解釈でも本意を意識している人は、その解釈幅が広く深いように思う。よく主宰やベテラン俳人の選と初心者の選が分かれるが、その理由の一つにこの季題把握の差があるのではないか。

・ かつて私が所属した現俳協系の結社は比較的若い会員が多く、俳壇の中でも新感覚の句が多いことで有名であった。このため類想や旧態依然の言葉を嫌い、新しい言葉やカタカナ言葉を積極的に採り入れる風があった。しかし今思うに、その風は必ずしも季題の本意、本情を理解したものではなく、単に新しい言葉や想を取り込むだけの姿勢であったように思う。またそれら作品の評価は一方的に主宰の選に委ねられていた。しかし、新しみの創造とは主宰の選にゆだねる以前に、作者自身が定型、季題の歴史を学ぶ必要があり、その自覚の上に成立するものと思い当たる。