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蕪村の自賛句(その二・十五~二十二)

2020.08.10 13:40

http://yahantei.blogspot.com/2006/06/blog-post_115146854672402088.html【蕪村の自賛句(その二・十五~二十二)】 より

蕪村の自賛句(その十五)

五二 水にちりて花なくなりぬ岸の梅 

本間本所収。この句は最高点の印の長点句。安永六年(一七七七)、蕪村、六十二歳のときの作。「水にちりて花なくなりぬ崖の梅」(霞夫書簡)、「水に散ッて花なくなりぬ岸の梅」(『夜半叟句集』)との句形がある。この霞夫宛の書簡には、「此句、うち見ニはおもしろからぬ様ニ候。梅と云(いふ)ニ落花いたさぬはなく候。されども、樹下ニ落花のちり舗(しき)たる光景は、いまだ春色も過行かざる心地せられ候。恋々の情之有候。しかるに、此江頭の梅は、水ニ臨ミ、花が一片ちれば、其まゝ流水に奪(うばひ)て、流れ去り去りて、一片の落花も木の下ニハ見ぬ、扨も他の梅と替(かは)りて、あわ(は)れ成(なる)有さま、すごすごと江頭ニ立(たて)るたゝずまゐ(ひ)、とくと御尋思候へば、うまみ出候」との記載が見られる。蕪村がこの句を自分の句のうちで最高の作としているのは、「此江頭の梅は、水ニ臨ミ、花が一片ちれば、其まゝ流水に奪(うばひ)て、流れ去り去りて、一片の落花も木の下ニハ見ぬ」という、この着眼点がこの句の新味で、それに着眼したことに蕪村自身が満足の意を表しているのである。句意は「岸辺の梅は、地上に散り敷いて名残りを惜しませるよすがとてなく、水上に落ちるそばから流水に奪われたちまち流れ去ってしまう。後には老樹が寂しく残るばかり。『行くものはかくのごときか』と、花を伴って去った非常な時間を思う老蕪村の孤独な心境の表白」(『蕪村全集(一)』)。蕪村は、老成の画・俳二道を極めたものとして、この「行くものはかくのごときか」ということに大きな関心事があった。そして、一見して平凡なこの掲出句には、その老いていくものの老愁というものを託していることを、この「水にちりて」の上五から汲んで欲しいというのであろう。いかにも、蕪村らしい着眼点ではあるが、なかなかそこまで汲み取って鑑賞するのは至難の業のようにも思われる。

蕪村の自賛句(その十六)

六六 大門のおもき扉や春の暮

本間本所収。この句も最高点の印の長点句。天明元年(一七八一)、蕪村、六十六歳のときの作。「大門」の詠みは、『蕪村自筆句帖』では「だいもん」で、『蕪村全集(一)』では「おほもん」であるが、次の「おもき扉や」と呼応しての後者の詠みとしたい。この句は几董編の『蕪村句集』には収載されてはいない。句意は「春日もようやく暮れて、夕闇の中に寺の総門の大きな扉を閉ざすギィーッという鈍い音が吸い込まれてゆく。重さの感覚と春愁との調和」(『蕪村全集(一)』)。その句意の頭注に「春深遊寺客 花落閉門僧」(『詩人玉屑巻二〇』)に典拠があるとの関連記載が見られる。しかし、その漢詩文の典拠の背景は必須のものではなく、蕪村の絵画的な句の一つとして、そのイメージは鮮明に伝わってくる。蕪村がこの句を長点句としている理由は、その漢詩文の典拠に基づくものではなく、「大門のおもき扉」と「春の暮」との取り合わせの妙のように思われる。それは、「重さの感覚と春愁との調和」というよりも、「重さの聴覚的な音の世界から春愁の視覚的な映像の世界への誘い」というようなことを蕪村は感じとっているのではなかろうか。そう解することによって、この「大門のおもき扉や」の「中七や切り」の余情が活きてくるものと解したい。

蕪村の自賛句(その十七)

八五 祇(ぎ)や鑑(かん)や花に香炷(たか)ん草むしろ

本間本所収。この句も最高点の印の長点句。安永八年(一七七九)、蕪村、六十四歳のときの作。この句には「や鑑や髭に落花を捻りけり」という異形のものもある。は飯尾宗祇、鑑は山崎宗鑑で、共に、連歌・俳諧の始祖とも仰がれている人物である。「香炷かん」・「髭に落花」は、宗祇が髭に香を炷き込めた逸話(扶桑隠逸伝)に由来するものであろう。掲出の句意は「いにしえの先達、宗祇、宗鑑は香り高い風雅の足跡を残した。今の世の宗祇・宗鑑とも呼ぶべき諸子よ、私たちも花下に俳筵を繰り広げその遺薫を継ごう」(『蕪村全集(一)』)。いかにも高踏主義の文人好みの蕪村らしい句ではあるが、こういう句を、蕪村自身が、「これが私の俳諧(俳句)です」と後世に伝えようとして、自賛句の最高点の長点印を付けていることに、いささか戸惑いすら感じる。これが、当時の蕪村の一面の「晴れ」の世界であるとしたら、同年の作の「洟(はな)たれて独(ひとり)碁をうつ夜寒かな」の偽らざる「褻(け)」の日常諷詠の世界に、より多くの親近感を覚えるのである。そして、蕪村が密かに句集を編まんとして、そのうちの自信作と思っていた作品というのは、この掲出の句のような、特定の、そして、上辺だけの「晴れ」の世界のものが多いということも心すべきことなのかもしれない。

蕪村の自賛句(その十八)

一五二 飢鳥(うゑどり)の花踏みこぼす山ざくら

本間本所収。この句も最高点の印の長点句。安永三年(一七七四)、蕪村、五十九歳のときの作。この年には「なの花や月は東に日は西に」という夙に蕪村の句として世に知られている句がつくられているが、この有名な句には何らの点印も施されていない。しかし、几董編の『蕪村句集』には収載されており、そして、この掲出の花の句は『蕪村句集』には収載されていない。夜半亭二世・蕪村と夜半亭三世・几董とでは、やはり、それぞれの好みがあり、それらが反映された結果のことなのであろうか。掲出の句意は「人里離れた山桜の樹上に、餌に飢えた鳥が群がって荒々しく花を踏みこぼし、時ならぬ落花の景を現出している」(『蕪村全集(一)』)。この句の「飢鳥の」という蕪村の視線は鋭いし、全体的に画人・蕪村の句という雰囲気を有している。この年には「ゆく春やおもたき琵琶の抱心(だきごころ)」や、関東遊歴時代の思い出に連なる「ゆく春やむらさきさむる筑波山」

(結城の城址にこの句の句碑がある)など名句が多い。掲出の句もそれらの名句のうちの一つにあげられるものであろう。

蕪村の自賛句(その一九)

一六三 なのはなや魔爺(まや)を下れば日のくるゝ

本間本所収。最高点の長点句。安永二年(一七七三)、蕪村、五十八歳のときの作。この句は几董編の『蕪村句集』には収載されていない。この句は「菜の花や摩耶を下れば暮(くれ)かゝる」との句形のものもある。「摩耶」は六甲連邦の一つの摩耶山のこと。その山上に釈迦の母・摩耶夫人を祀る天上寺がある。句意は「摩耶山を参詣して山を下ってくると、春の日もようやく暮れかかり、摂津平野を埋めた一面の菜の花も、先刻までの明るい黄色から黄昏へと次第に変わってゆく」(『蕪村全集(一)』)。この句と同時の作に「菜の花や油乏しき小家がち」がある。この句の方が掲出の句よりも名の知られた句なのであるが、そこには何らの印も付されていない。この掲出句の眼目は、摩耶山と摂津平野を埋め尽くした

一面の菜の花との取り合わせの妙にあるのであろう。余り蕪村の佳句としては取り上げられていない句であるが、いかにも、摂津平野の淀川べりに生まれた蕪村の、その郷愁のようなものと、画人・蕪村の視点のようなものが感知される一句である。

蕪村の自賛句(その二〇)

一七〇 ゆくはるや同車の君のさゝめごと

本間本所収。最高点の長点句。安永九年(一八〇七)、蕪村、六十五歳のときの作。この句も几董編の『蕪村句集』には収載されていない。蕪村の王朝趣味の一句として名高い。「同車の君」は貴族の牛車に同乗する女性。「ささめごと」はひそひそ話のこと。句意は「晩春の都大路を、女性の同乗した牛車が静かに行く。牛車の中で身を寄せた佳人が、尽きることなき睦言をささやき続けている。暮春の情と車中のささめ言との照応」(『蕪村全集(一)』)。

蕪村俳諧の一面の特色として、実生活とはまったく関係のない古典趣味・貴族趣味・王朝趣味・空想的虚構趣味のものが顕著な句があげられる、この句もそうした類のものであろう。そして、こういう句は芭蕉などには見ることができず、蕪村の独壇場という趣すらある。そして、蕪村自身、こういう句を得意としていて、また、好みの世界のものであったのであろう。そういう意味では、蕪村自身が、この句に長点印を付したことは十分に頷けるところのものである。

蕪村の自賛句(その二一)

一七一 春おしむ座主の聯句に召されけり

本間本所収。平点より上で長点よりした珍重の印のある句。前句(その二〇)と同時の頃の作。「座主」とは一山の寺務を総理する者。また、比叡山の天台座主の専称のこと。この句は「春ををしむ座主の聯句や花のもと」という句形のものもある。句意は「天台座主の催された惜春の連句の会に連衆として召された。その光栄はもとより、近江・山城の春景を眼下にした眺望はいかにも春を惜しむにふさわしく、詩情そぞろなるものがある」(『蕪村全集(一)』)。蕪村が実際に天台座主の興行の連句会に召されたのかどうかは不明。この句は蕪村か亡くなる一年前の作なのであるが、蕪村は晩成の人で、この年には夜半亭三世となる几董との文音による両吟歌仙に取り組むなど、画・俳二道にわたって絶頂期にあり、その二道においてその名をとどろかさせたいた頃で、実際にこういうことがあったのかもしれない。しかし、前句(その二〇)の「同車の君のささめごと」といい、この掲出句の「座主の連句」といい、いかにも、蕪村の世界のものという印象とともに、やはり、蕪村は江戸時代の京都を中心にして活躍した人という印象を深くする。 

蕪村の自賛句(その二二)

一九八 海棠や白粉(おしろい)に紅をあやまてる

本間本所収。長点句。安永四年(一七七五)、蕪村六十歳のときの作。海棠は「睡れる花」という異名を持つ。この異名は楊貴妃の故事に由来があるとされている。この句も海棠を見ての嘱目的な句ではなく、その楊貴妃の故事を背景としての見立ての作句といえる。句意は「うつむきがちに桜よりも濃くほんのりと紅を含んだ海棠の花。酒に酔った楊貴妃のしどけない寝起きの化粧のように、白粉と誤って紅をは刷いたのか」(『蕪村全集(一)』)。

蕪村の時代はともかくとして、海棠を見て楊貴妃の故事に結びつけて作句するということは、現代においてはほとんどなさなれないことであろう。掲出句の視点の「酒に酔った楊貴妃のしどけない寝起きの化粧のように、白粉と誤って紅をは刷いたのか」ということになると、どちらかというと滑稽句に近いものになる。そして、その滑稽味を蕪村は佳としているのであろうが、同時の頃の作の「遅き日のつもりて遠きむかし哉」に比すると、後者に軍配をあげざるを得ないのである。そして、几董編の『蕪村句集』には掲出句は収載されていないが、後者の句は収載されていて、夜半亭二世・蕪村と夜半亭三世・蕪村との選句姿勢の違いなども感知されるのである。